コンピュータ創世記(1)

もっとちゃんと推敲してからアップしようと思っていたのですが、そう考えるとちっとも先に進まないので、雑駁なままですが、恥をかくのを覚悟して書いていきます。主題はコンピュータがいかにして誕生し、それが人間の頭脳を模倣することを期待されてきたか、ということです。


1936年、若干24歳のイギリス人アラン・チューリング(私は「テューリング」と記すほうが原語の発音に近いと思うが、ここでは慣習に従い「チューリング」と記す)が革命的な論文「計算可能な数、ならびに決定問題への応用(On Computable Numbers, with an Application to the Entcheidungsproblem)」を発表する。(決定問題はドイツ語でEntcheidungsproblemと書かれている)
今、私が読んでいる大著(まだ、半分しか読めていない)

にはこう書かれている。

“決定問題”とは、ドイツの数学者ダーフィト・ヒルベルトが1928年の国際数学者会議で提出した難問だった。(中略)“決定問題”とは、ひとつの厳密な段階的手順を見つけ、その手順で演繹法形式言語を用いて、自動的に証明を遂行するというものだ。それは、正当な論証をすべて機械的な規則で表現するという、ライプニッツの夢の再来だった。ヒルベルトは問いの形でそれを提示したが、楽観的な見通しを持ち、自分がその答えを知っていると考えた。(中略)若干22歳のアラン・チューリングは、大半の関連文献に疎く、あくまで独力で仕事を進める癖があり、担当教授から、“慢性の孤立状態”に陥ることを心配されたほどで、ここでも(一見)まるで方向違いの問いを持ち出した。すべての数は計算可能か、という問いだ。そう問うこと自体が意表を突くもので、なにしろ、計算不可能な数という観念を、ほとんど誰も考察したことがなかった。(中略)チューリングは計算不可能な数があることを証明した(というより、大半の数が計算不可能だ)。
 さらに、どの数も数学や論理学の符号化された命題に対応しているので、チューリングは“あらゆる命題が決定可能か”というヒルベルトの問いを解決したことになる。つまり“決定問題”には答えがあり、その答えが“否”であることを証明した。計算不可能な数とは、実質的には決定不可能な命題なのだ。


「インフォメーション 情報技術の人類史」より


このようにチューリングの論文は数学の基礎を厳密に構築しようとする当時の数学界の動向に、厳しい反論を投げつけた。この論文は純粋に数学基礎論に関するものであったが、そこには思わぬ副産物があった。それはチューリング・マシンという仮想の機械で、これは現在のコンピュータの原型となったものだ。


翌年の1937年には、今度はアメリカの人間であるが、やはり若い21歳のMITの大学院生クロード・シャノンが「リレー回路とスイッチング回路の記号的解析(A Symbolic Analysis of Relay and Switching Circuits)」という、重要な論文を発表する。これは論理式を電子回路で模擬可能であることを示すものだった。前記のチューリング・マシンが一種の論理学的な機械であることはチューリングの論文から明らかなので、この2つの論文を重ね合わせれば、これらだけでコンピュータが電子回路によって実現可能であることが明らかになる。


では、この2つの論文によってコンピュータが開発されたのかと言えば、まったくそうではないらしい。コンピュータの開発は、純粋数学の高みから導き出されたのではなく、もっと泥臭い技術オタクのような雰囲気からどうやら生み出されたものらしい。その場面に登場する最初の人物はアメリカ人の物理学者、ジョン・ヴィンセント・アタナソフである。彼の父親はブルガリアからの移民で、その関係で、1970年にはアタナソフはブルガリアの科学アカデミーから招待され、ブルガリア民共和国政府から勲章を授与されたそうだ。