ウィーナーの憂慮

3月7日に書いた「映画 イミテーション・ゲームを見た」で情報科学は戦争の子である。」という考え(思い)に到った。すると、ウィーナーが1947年(第二次世界大戦終結の2年後)に著書「サイバネティックス」の長い序文の最後で憂鬱そうに書いている以下の記述を思いだした。戦争の子という情報科学の暗い出自を念頭においてこの文章を読むと、ウィーナーの憂慮がよりよく理解できるような気がした。

既述のように、善悪を問わず、技術的に大きな可能性のある新しい学問*1の創始にわれわれは貢献してきた。われわれはそれを周囲の世間に手渡すことができるだけであるが、それはベルゼン(Belsen)*2や広島*3の世間でもある。われわれはこれら新しい技術的進歩を抑圧する権利をもたない。これらの進歩は今日の時代のものである。われわれがそれを抑圧しても、その発展を、最も無責任で欲得づくの技術者たちの手にゆだねることにしかならないであろう。われわれのなしうる最善のことは、この研究を、生理学や心理学のように戦争や搾取からもっとも遠い分野に限定することである。この研究によって、われわれはどうかすると力の結集を助長することになるかもしれない(生存という条件によって、力というものは常に最も不道徳な手に結集させられるのである)。しかし上にも述べたように、かりにそうした危険があるとしても、この新しい領域の研究によって人類と社会の理解を深めることができるという善い成果が挙がり、その方が、危険よりもずっと大きいという希望をもつ人々もいる。私は1947年にこの本を書いているが、そういう希望は根拠薄弱であると言わねばならない。


ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス」より

だが現代において、「生理学や心理学」も、もはや戦争や搾取からもっとも遠い分野ではあるまい。