ラビュリントイオ・ポトニア(迷宮の女主人)(3)

ポトニアという言葉の解説は日本語版のWikipediaにはないので、英語版で紹介します。

ポトニアは「女主人、貴婦人」を意味する古代ギリシア語であり、女神の称号である。この言葉はミュケーナイ時代のギリシア語から古典期ギリシア語に同じ意味で引き継がれ、数柱の女神に適用された。類似した言葉にデスポイナ「女主人」という称号があり、これはアルカディアの儀式の神秘劇の中の、名を明かされない冥界の女神に対して与えられていた。彼女はのちに、コレー(ペルセポネー)、「娘」、入信者を死から生と不死へと導く生死の再生サイクルにおけるエレウシースの神秘劇の女神、と融合した。カール・ケレーニイはコレーを、ミノア時代のクレタ島クノッソス宮殿をたぶん主催していたであろう、名を明かされない「迷宮の女主人」と同じであると考えている。


Potnia--Wikipedia英語版」より


いきなり小難しい文章で恐縮ですが、まず分かるのは、ポトニアというのは「女主人、貴婦人」という意味で、ある種の女神に付けられる称号である、ということです。また、上の文中のミュケーナイ時代というのは古代ギリシアの時代区分で、だいたい紀元前1450年から紀元前1150年ぐらいをいうようです。私が26年前にエギナ島で見たアフェア神殿(下の画像)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Temple_of_Aphaia.jpg
は紀元前500年ぐらいに建造された神殿だそうですから、それから650年から950年ほど昔のことになります。アフェア神殿が築かれた時代は古典期と呼ばれ、紀元前600年から紀元前300年ぐらいを言います。普通、古代ギリシアという言葉でイメージされるのは古典期のギリシアです。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/88/Plato_Silanion_Musei_Capitolini_MC1377.jpg


有名な哲学者プラトン(右)の生きていた時期は、紀元前427年 - 紀元前347年で、まさにこの時代の中に入っていますし、ギリシア悲劇の3大作家アイスキュロスソフォクレスエウリピデスの生きていた時期は、それぞれ、紀元前525年 - 紀元前456年、紀元前496年頃 - 紀元前406年頃、紀元前480年頃 - 紀元前406年頃、で、みんなこの時代に入っています。さらに、アテーナイの民主政治を栄えさせた偉大な政治家ペリクレスも紀元前495年? - 紀元前429年と、この時代の人です。

さて、ミュケーナイ時代というのは、この時代より少なくとも350年以上昔になります。この頃のことは長い間よく分かっていなかったのですが、トロイを発掘した有名なハインリヒ・シュリーマンが1876年にミュケーナイの王宮を発掘し、イギリス人アーサー・エヴァンズが1900年にクレタ島クノッソス宮殿を発掘したことにより、その存在が明らかになってきました。しかし、その内容がいまひとつはっきりしなかったのは、それらの遺跡には後代のギリシア文字はなく、エヴァンスが見つけた見慣れない文字しかなかったからです(シュリーマンはその文字すら見つけることが出来なかった)。エヴァンスの見つけた文字はまもなく2種類に分類できることが分かりました。これらはエヴァンスによって線文字A線文字Bと名づけられました。数が多かったのは線文字Bのほうです。この線文字Bは1952年にマイケル・ヴェントリスによって解読され、それまで知られていたより古いギリシア語であることが分かりました。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Clay_Tablet_inscribed_with_Linear_B_script.jpg


線文字Bが書かれた粘土板


さて話をポトニアに戻すと、この線文字Bで書かれた粘土板の中にポトニアという言葉が見つかったのでした。私は20代の前半に、

ミュケーナイ世界

ミュケーナイ世界

という本でそのことを知りました。ところでこの本の著者であるチャドウィックは、学界にあってヴェントリスの線文字Bの解読をいち早く認め、彼の協力者となった人です。

線文字Bの各文字に対してヴェントリスが暫定的に定めた音価をクノーソスの粘土板で試してみるという仕事を私は1952年から始めたのだったが、最初に私の注意を惹きつけた文書の一つが粘土板V52であった。それは2行にわたって記された小さな粘土板で、右側は破損していたが、二行目の末尾にあたる小さな断片も別に残っていた。これを転写すると次のようになる。

   a-ta-na-po-ti-ni-ja 1 [
   e-nu-wa-ri-jo 1 pa-ja-wo[ ] po-se-da[

 最初の語は、古典学者なら誰でもこれを二語に分けて、Athana potnia「女君(ポトニア)アテーナー」と読むにちがいない。これはホメーロスの語形potni(a) Athenaieとほとんど同じである。


「ミュケーナイ世界」J.チャドウィック著 より

さて、ここで(以前もこのブログに書きましたが、それとほぼ同じ)注釈を入れさせて下さい。線文字Bは古代ギリシア語のための文字なのですが、不思議なことに日本語のひらがなやカタカナのような音節文字なのです。それは実はギリシア語を書くのには不便な文字です。学者は、古代ギリシア人がこの文字を先進文明から借用したためにこのような現象が起きている、と説明しています。ちょうど我々日本人がカタカナで英語を書き表す時のように、この方式では余分な母音が入ってしまいます。英語のspeedをカタカナで書くとスピード(su-pi-i-do)となるように、sのあとにuを、dのあとにoを付け加えてしまうような現象です。上の例のpo-ti-ni-jaは、余分な母音を除いてpotniaと読むのが正しいのだそうです。