行ったつもりのアテネ:ゼウス神殿(オリュンピエイオン)
ゴールデンウィークは出勤日が多く、ひたすら脳内でギリシアを旅行しているつもりになっていました。アテネでゼウス神殿、またの名をオリュンピエイオンを訪れたのは、妄想の中では5月1日(金)の午前中でした。前日の23:10にアテネ国際空港に到着。ホテルに到着は深夜で、この日の朝は遅めに起きた、という想定です。
この位置から見ると、このゼウス神殿の往時の雄大な輪郭が想像でき、さらにその向こうにパルテノン神殿を望むことが出来るところに、ハドリアヌスの構想も読みとれるような気がします。ハドリアヌスは、古きアテナイに対して自分の新しい街を追加しようとしたのでした。ゼウス神殿は、古きアテナイの象徴パルテノン神殿に対抗しつつ対応する、ハドリアヌスの街の象徴なのでしょう。そして、そこにはアテナイとローマを結合させる意図もあったように感じます。
ハドリアヌスは、紀元二世紀の人。ローマ五賢帝の一人に数えられ、自らはギリシアを支配する立場にありながら、ギリシア文化への熱狂的賛美者であった。この皇帝は、ギリシア人の手で完成できなかったいくつかの建造物を完成させていて、ゼウス神殿もその一つである。紀元前五一五年、アテナイの僭主ペイシストラトスによって建設が始められ、失脚により中断、七百年後にハドリアヌス帝は、これを百四本のコリント式列柱が天を衝く大神殿とし、ここで自らパンアテナイア大祭の式典を挙行した。
・・・・十五本の列柱が残る神殿の偉容のかなたに、さながらハドリアヌスの憧憬を象徴するかのように、紺碧の空高くアクロポリスが望まれる。
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この光景を念頭において、ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」
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それから三か月後、アテナイでオリンピエイオンの献堂式にともなってかずかずの祝典が催された。それらはローマの儀式を想起させたが、しかしローマでは地上で行なわれたことが、この地では天上で行なわれたのであった。秋のある亜麻色の午後、ゼウスの超人的スケールにあわせて考案されたあの大列柱のもとにわたしは座を占めた。デウカリオンが大洪水が退くのを見たその場所に建てられた大理石の神殿は、重量を失い、重い白雲のごとくに浮かび漂うかに見えた。わたしの礼服の紫紅色は間近なヒメトス山上の黄昏の色とよく調和した。わたしはポレモンに落成式の演説を依頼しておいた。
この小説では、「ゼウスの超人的スケールにあわせて考案されたあの大列柱のもとにわたしは座を占めた。」と記しています。そうか、この列柱のもとにハドリアヌスは座を占めたのか、と思うと、ここの記述がより引き立つのを感じました。もちろん、ローマ皇帝ですから、護衛の兵士たちもまわりにいたことでしょう。そして、ギリシアの名士たちも、それからまた、旅する皇帝の随行者たちもそこにいたのでしょう。権力者としてのハドリアヌスの姿が見えます。この小説の上に引用した文章が属しているのは「黄金時代(SAECULUM AUREUM)」という章なのですが、まさにハドリアヌスの生涯における黄金時代のひと場面であるように思いました。
ところで、この神殿の巨大な規模はハドリアヌスによって意図されたのか、と思ったのですが、Wikipediaの記述によると
124年から125年に掛けて巡察旅行でアテナイを訪問した皇帝ハドリアヌスは、各種公共建築物の建設事業の中に、ゼウス神殿の完工も盛り込んだ。このとき、ゼウス神殿の当初の建築計画はわずかな修正を除いて維持され、神殿周囲に大理石で舗装された床が追加された。
とあるので、この巨大さはハドリアヌスの発案ではなかったようです。これもまたWikipediaの記述ですが、このゼウス神殿は途中何度も建築を再開しようとしたのですが、完成までにはいたらず、ハドリアヌスの治世になって初めて完成したとのことです。
紀元前550年ごろ、アテナイの僭主ペイシストラトスが、ゼウスに捧げられた初期の祠があったこの地に神殿の建設を始めた。しかし建設途中の神殿はいったん撤去され、ペイシストラトスの息子で跡を継いで僭主となったヒッピアスらにより、紀元前520年頃より建設が再開された。この時の計画では、41m×108mの基礎の上に短辺8本、長辺21本の円柱を建てた神殿になる予定であった。しかし、紀元前510年にヒッピアスが追放されたため建設はまたもや中断することになった。建物の基礎部分と、ごくわずか完成していた円柱を残したまま336年もの間放置された後、セレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスが紀元前174年に建設を再開した。この時に建物のデザインもドーリア式からコリント式に変更され、円柱も短辺に3列×8本と長辺に2列×20本の合計104本を建てる計画に変わった。円柱の高さは17m、直径は2mとされた。建設が半ばまで進んだ紀元前164年、アンティオコス4世が死去したため建設は中断された。共和制ローマの支配下となったアテナイで、ルキウス・コルネリウス・スッラは放置されていたゼウス神殿の円柱をローマに持ち帰り、カピトリーノの丘に建てられるユピテル神殿に使用してしまったため、ゼウス神殿は大きく破壊されることとなった。初代ローマ皇帝アウグストゥスの統治時代にゼウス神殿の建設は再開されるが、完成は紀元後2世紀の第14代ローマ皇帝ハドリアヌスの統治時代を待たねばならなかった。神殿の建設開始から638年も経過したことになる。
この記述を念頭において「ハドリアヌス帝の回想」を読み直してみると、以下の記述にはこのような歴史的背景があったのだと、気づかされました。
わたしはローマのシㇽラの略奪の跡を修復したが、これでセレウコス王朝が完結させようとして果たさなかったことをわたしは成し遂げたわけである。
「シㇽラ」と書かれているのには訳注がついていて「スラ」のことだと分かります。先に引用したWikipediaでは「ルキウス・コルネリウス・スッラ」と書かれている人物です。
先ほど引用した「ハドリアヌス帝の回想」のオリンピエイオン献堂式の記述には、ポレモンの落成式の演説の描写が続きます。
ポレモンには俳優的要素がたぶんにあったが、しかし偉大な役者の表情の演技は時として群集全体の、一世紀全体のわかちもつ感情を表現するものである。序説にはいる前に彼は天に目をあげて思いを凝らし、今この時に含まれたすべての恵みを一身にとり集めるかに見えた。皇帝は時代とそしてギリシア的生活そのものと協力してきた。皇帝の行使する権威は権力というよりはむしろ人間以上の神秘な力、しかし人間の媒介によらずしては有効に作用しない力なのである。ローマとアテナイの結婚は成就され、過去は未来に希望を見いだした。凪(なぎ)のために長い間動きがとれなかったがようやく帆に新しい風を受けて動き出す船のように、ギリシアは再出発しつつある。云々(うんぬん)。
そしてこの後に、ハドリアヌスのこんな心情を描くところに、この小説の魅力があります。
一瞬の憂鬱がわたしの心をしめつけたのはその時だった。――わたしは成就とか完成とかいう語がそれ自体終末の観念を含むものと考えていた。おそらくわたしはすべてを貪り尽くす≪時≫にもうひとつ余分の餌食を与えたにすぎないのであろう。
反対側から見ると、わずかな数の柱しか現存していないことが分かり、みすぼらしい感じがします。