エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(3):カリア人

ハリカルナッソスではギリシア人だけでなくカリア人の社会もあるのでした。これはその町の成り立ちに原因があるかもしれません。

ハリカルナッソスの建設はミュティレネの成り立ちに似ていて、最初は本土にほど近い小島をギリシア人が占拠します。この島はゼピュリアと名付けられました。左の地図で「聖ペテロ城」と書かれているあたりが昔は島だったのです。なお、この「聖ペテロ城」というのは中世になってロドス騎士団によって建てられた城であり、今、扱っている時代にはもちろんこの城はありませんでした。やがて植民は対岸の本土海岸沿いにも拡がっていき、長い年月のうちに島と本土の間の海峡が埋めたてられて、その両側が港として機能するようになったのです。本土側にはもともとカリア人の町があり、この町の名がサルマキスだったようです。一旦はカリア人は追放されたが、その後戻ってきて、共存するようになったようです。つまり、ギリシア人の町ゼピュリアとカリア人の町サルマキスが合体して出来たのがハリカルナッソスだ、ということのようです。


そこでカリア人とはどんな民族なのか、調べてみました。
カリア人はホメロスの「イリアス」ではトロイア方として登場します。

次にまたナステースは、鴃舌(げきぜつ)を使うカリア人らを引率してたが、
この人々こそ、ミーレートス(市)や、プティーレスの森蔭つづく山なみ、
またマイアンドロスの流れ、さてはミュカレーの峻(けわ)しい城に拠(よ)るものなれ。


ホメーロスイーリアス」巻2より

このようにカリア人の領土の中にはミレトスもあったのでした。ハリカルナッソスはミレトスの南、それほど遠くないところにありますのでそこも領土だったのでしょう。カリア語で書かれた資料で現在まで残っているものは少なく、この言語の詳細は不明なようですが、ヒッタイト語に近い言語のようです。なお、ヒッタイト語は、インド・ヨーロッパ語族の中のアナトリア語派の代表的な言語です。

カリア語(カリアご、Carian language)は、鉄器時代アナトリア半島南西部のカリア(今のトルコの一部)で使われていた古代語。紀元前7世紀から紀元前3世紀にわたる碑文が残っている。カリア本土のほかにエジプトやギリシアにも碑文が残る。

カリアはリュディアの南、リュキアの北西に位置し、ギリシア人の植民地であるイオニアドーリアに隣りあっていた。カリア語はリュキア語と同様にインド・ヨーロッパ語族アナトリア語派のルウィ語群に属する。

資料の制約のために充分に解読されていないが、1996年にトルコの調査団によってカリア語とギリシア語の2言語碑文が発見され、状況は劇的に改良された。


日本語版ウィキペディアの「カリア語」の項より

ヒッタイト語の文書に記されている「カルキヤ」あるいは「カルキサ」というのはこのカリア人のことであると推定されています。この「カルキア」は最初ヒッタイト王国の敵対者として現れますが、やがてヒッタイトに服属したようで、BC 1274年のカデシュの戦い(これはヒッタイトとエジプトの間の戦争ですが)ではカルキサは、エジプトに対抗してヒッタイト側で戦った民族のひとつとして名前が挙がっています。以上のことからカリア人は、古くから小アジア(=アナトリア)に居住していたと見られます。ところがヘロドトスは、カリア人はかつてエーゲ海全域に居住していたと述べます。

カリア人は島から大陸に渡ってきたものである。というのは、古くはミノス王(クレタの王)の支配下にあってレレゲス人と呼ばれ島に住んでいたのである。しかし彼らは、私が口碑を頼りにできるだけ過去に遡ってみた限りでも、貢物なるものは一切納めず、ミノス王の要求があれば、その度ごとに船の乗員を供給したのであった。ミノスは広大な地域を制圧し戦争では常勝の勢いであったから、カリア民族もこの時期においては、あらゆる民族の内で最もその名が轟いていたのである。
(中略)
その後ずっとたってから、ドーリス人とイオニア人とが彼らを島から逐い、かくして大陸*1へ移ってきたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻1、171 から

しかし、これはヘロドトスの誤認であって、カリア人はもとからアナトリアに居住していたのではないでしょうか。ヘロドトスは上記の引用に続けて以下のように書いています。

カリア人についてクレタ人の伝えるところは右のようであるが、カリア人自身はこの説には不賛成で、自分たちは土着の大陸人であり、昔からずっと今の名称を用いてきているのだと信じている。


ヘロドトス著「歴史」巻1、171 から

つまりカリア人自身はヘロドトスの説に反対なわけです。しかしカリア人がかつてエーゲ海全域に居住していたことを、ヘロドトスより一世代あとのトゥキュディデスも主張しています。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦*2中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥキュディデス著「戦史」巻1、8 から

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

これらの記事から判断して私は、カリア人は小アジアが発祥の地であるが、ギリシア人がエーゲ海に進出する以前にエーゲ海に進出していたのだと考えます。エーゲ海はかつてはカリア人の海だったのかもしれません。