エーゲ海のある都市の物語:ハリカルナッソス(6):エジプトの傭兵としてのギリシア人

ハリカルナッソス人がエジプトに行って傭兵になるようなことが始まったのはいつなのでしょうか? これについて答を見つけられませんでしたが、近くのロドス島の住民はすでにプサンメティコス2世の時代(BC 595-589)に傭兵としてエジプトに行っていたようです。それが分かるのは、アブ・シンベルで見つかったギリシア語の碑文があり、それは傭兵たちが書いたものと推定され、その中に「イアリュソス人テレフォス」「イアリュソス人アナクサデル」という名前が登場するからだそうです。イアリュソスはロドス島にあるドーリス人の町です。このことは周藤芳幸著「物語 古代ギリシア人の歴史」

に出ていました。
アブ・シンベルには有名なアブ・シンベル大神殿と小神殿があるのですが、エジプトでもかなり南のほうです。こんな早期にこんなところにまでギリシア人がいたということに驚きました。彼らはエチオピア人と戦うためにこんなところまで来ていたのでした。



(左:有名なアブ・シンベル大神殿


彼らは、上の巨像のどれかの足のところにギリシア文字で自分たちの名前を刻んだようです。しかもこの碑文から分かるのはこの時のエジプト人部隊の総指揮官の名がアマシスだということです。このアマシスはおそらく昨日ご紹介したパネスの雇い主であるエジプト王アマシスのことでしょう。アマシスは元々王家に属する人間ではなかったのですが、プサンメティコス2世の息子アプリエスが次のエジプト王となった時に反乱を起して王座を奪い取ったのでした。アマシスはギリシア人を重用し、自分の護衛隊もギリシア人の中から選びました。

プサンメティコスは彼のエジプト統一に協力したイオニア人およびカリア人に土地を与えて住まわせた(中略)。後になってアマシス王は、彼らをこの地から立退かせてメンピスに居住せしめ、エジプト人を措いて自分の護衛隊に抜擢した。


ヘロドトス著「歴史」巻2、154 から

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

歴史 上 (岩波文庫 青 405-1)

残念ながら「イオニア人とカリア人」であって「ドーリス人」とは書かれていないので、ハリカルナッソス人はたぶんこの中には含まれていません。しかし、以下の記事にはハリカルナッソスの名が出ていますので、アマシス王の時代(BC 570-526)には少なくない数のハリカルナッソス人がエジプトに住んでいたのだと思います。

アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドス、ハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から