エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(5):新興海上勢力として

アイギナはサモスとも不和でした。

アイギナ人がサモス人に対してこのような行為に出たのは、かねて怨恨を抱いていたからである。元はといえばサモス人の方が元凶であって、アンピクラテスがサモスに君臨していた頃、彼らはアイギナを攻めてその住民に多大の危害を加え、彼らもまた反撃に会って損害を蒙ったことがあった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

サモス王アンピクラテスによるアイギナ攻撃はBC 670年頃だとされています。そしてこれはレラントス戦争の一環として実行されたもののようです。レラントス戦争というのは日本語版ウィキペディアによると以下のようなものです。

レラントス戦争(レラントスせんそう、希:Ληλάντιος πόλεμος、英:Lelantine War)は、ギリシアのエウボイア島を舞台として、紀元前710〜650年頃に行われたカルキスとエレトリアの戦争。エウボイア島の肥沃なレラントス平野を巡って勃発したとされ、カルキス側が勝利したが、この大規模な戦争によってエウボイア島は疲弊し、衰退を引き起こすこととなった。カルキスとエレトリアは当時経済的に重要なポリスであったため、この戦争は多くの他ポリスを巻き込み、古代ギリシア中を二分した。歴史家トュキディデスによれば、トロイア戦争ペルシア戦争の間において、レラントス戦争は多数のポリスを参戦させた唯一の大戦であった。


日本語版ウィキペディアの「レラントス戦争」の項より

この戦争でサモスはカルキス側につき、サモスとは目と鼻の先にあるミレトスはエレトリア側につきました。サモスとミレトスは通商圏をめぐって対立していたと想像されています。アイギナとサモスの間にもエジプトとの交易をめぐって対立があり、そのためアイギナはたぶんエレトリア側についたのでしょう。
このレラントス戦争がカルキスとエレトリアの共倒れの形で終結した時、カルキスとエレトリアに代わってエーゲ海東側の都市が台頭することになりました。エーゲ海の西ではアイギナだけが海上勢力として発展し始めました。アテナイはまだこの頃、海上勢力としてはアイギナの後塵を拝していました。BC 670年頃にリュディア王国で貨幣が発明されるとエーゲ海東側ではそれが流通するようになりますが、エーゲ海西側ではアイギナが最初に硬貨を鋳造しています。それはBC 630年頃と推定されています。



左:アイギナのコイン


またアイギナ人は重さと長さの単位を確立し、それはギリシア世界での2つの単位体系のうちの1つになりました。


さて、BC 570年、アマシスがエジプト王に即位すると、彼はギリシア人を優遇し、自国に招きました。

アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドス、ハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。
(中略)ただアイギナ人は独立にゼウスの神殿を建立し、またサモス人はヘラの、ミレトス人はアポロンの神殿をそれぞれ建立した。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から

上のヘロドトスからの引用に登場する多くのギリシアの諸都市の中で、アイギナだけがエーゲ海の西側の都市です。つまり、アイギナは当時、エーゲ海の西側では唯一エジプトと交易していた都市国家だったのです。アイギナの勢力がさらに拡大したのは、BC 520年頃にクレタ島の都市キュドニアを支配下においた時でした。このキュドニアはそれまでサモス人が住んでいました。

自分たち(=サモス人)はクレタ島のキュドニアに住み着いた(中略)。彼らはここに五年間留まり繁栄したが、その勢いの盛んであったことは、今日キュドニアにあるいくつかの神祠、また女神ディクテュナの神殿を建立したのがこのサモス人であったことからも知られる。
 しかし六年目になって、アイギナ人がクレタ島民の協力の下にサモス人を海戦に破って隷属せしめ、サモスの艦船からイノシシの標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。
 アイギナ人がサモス人に対してこのような行為に出たのは、かねて怨恨を抱いていたからである。元はといえばサモス人の方が元凶であって、アンピクラテスがサモスに君臨していた頃、彼らはアイギナを攻めてその住民に多大の危害を加え、彼らもまた反撃に会って損害を蒙ったことがあった。これがアイギナ人の行動を促す動機を成したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

つまり、ここでこのエントリの一番最初の引用に戻ったわけです。このキュドニアについて英語版のWikipediaの「アイギナ」の項ではこう説明しています。

アルカイック時代のアイギナの海軍拡張の間、キュドニアは、新興の海軍勢力であるアイギナが支配する他の地中海の港へ向かう途中の、アイギナ艦隊にとって理想的な海上停留地であった。


英語版のWikipediaの「アイギナ」の項より

2つ上のヘロドトス「歴史」からの引用に「サモスの艦船からイノシシの標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。」とありますが、この「アテナの神殿」というのは、アフェア神殿のことを指していると推定されています。



左:アフェア神殿