倭の五王――王位継承と五世紀の東アジア

中国の「宋書」などの史書に登場する倭の五王について、古事記日本書紀の記述を一旦埒外におき、むしろ同時代の中国側の資料に即して解釈したらどういう解釈になるか、ということを論じた本です。

 五世紀の倭国史について考えるとき、『宋書倭国伝と記・紀のいずれに重点を置くべきかはいうまでもない。まずは『宋書倭国伝を中心に据えるべきであり、記・紀はその補助史料として位置づけられるべきである。もちろんこれまでもそうした研究はあり、大きな成果をもたらした。ただし、現代日本人の意識の根底にはまだ記・紀を主軸とする考えがある。
 本書は、倭の五王を、ひいては五世紀の倭国を理解するために、記・紀以外からどのような歴史をうかがえるのかを試みる。
 そこからは王権、国の組織のあり方、文化レベルなど記・紀が作り上げたイメージとは異なる五世紀の東アジアの歴史が眼前に姿を現すことになる。本書によって、日本の立場だけで日本史を考える危うさについて気付くきっかけになればと思う。


倭の五王――王位継承と五世紀の東アジア」の「はじめに」より


読んでいてはっとしたことがいくつかあります。
1つは「府官制」というものの存在です。どういうことかといいますと、例えば倭珍が宋によって「安東将軍」に任命されたことが宋書に出てきますが(「讃死し、弟珍立ち、遣使して貢献す。自ら使持節・都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。表して除正を求む。勅して安東将軍・倭国王に除す。」)将軍に任命されると、その任命された人物は「将軍府」という役所を開設する権限を持つ、ということです。

 讃は安東将軍に任命されることで重要な権限を宋から認められた。それは宋朝廷の外にあって宋のために活動する役所を設けることである。
 一般に将軍府または軍府という。耳慣れない用語であるが、幕府といえばわかりやすいだろう。要するに讃は安東将軍として幕府を開いたのである。一般的には日本では鎌倉幕府が最初の幕府として認知されているが、それは天皇が任命した征夷大将軍の幕府である。宋皇帝が任命した安東将軍の幕府も構造的には同じである。


同書の「第1章 讃の使節派遣―150年ぶりの対中外交」より

 将軍は将軍府のトップとして業務を執行するが、それを補佐する人々が必要となる。それゆえ讃は将軍府の設置、すなわち開府すると同時に幕僚を任命する権限も認められた。当時、将軍府にどのような役職を置くかは細かく定められていた。具体的には、司馬・従事中郎・参軍などの役職である。こうした役職を将軍府の官僚ということで府官と呼ぶ。


同上

 このように宋から将軍(大将軍)に任じられることで軍府を開き、その幕僚たる府官を任命するシステムを府官制という。将軍府開府と府官の任命もまた倭国の独自の行動ではない。高句麗百済も府官を任命している。


同上

このあたりの記述は全部引用したいぐらい面白いです。しかしそうするわけにもいかないので結論めいたところの記述まで飛ばします。

それは中国の統治技術の粋を集めた官僚制の一端に触れるということでもあり、先進的な中国の支配システムを導入することが可能になった。
 もちろん倭国が取り入れたそれは、きわめて雑駁なものであり、中国と比較できるようなものではなかっただろう。それでも将軍府という統治機構の出現は、倭国の権力機構の整備への第一歩として、日本史のなかで大きな意味を持つことになる。


同上

今後の研究の進展が楽しみです。


もうひとつおもしろいと思ったのは、上記のことに関連しますが、当時の東アジアにおける中国系知識人の活躍、ということです。

 四世紀から六世紀における中国の南北朝時代、特に南朝六朝文学と呼ばれる文学が発達した。文学とは独立した文芸ではなく、政治と密接に結びついていた。


同書の「第3章 倭王武の目指したもの―激動の東アジアのなかで」より

いかに美しい文章で文書を書くか。それが当時の中国知識人の評価の基準であった。
 外交文書も同じである。外交文書でいかに優れた文章を書くか、それは中国の周辺国にとって自国の文明が他国より優れたものであることを中国にアピールする重要な機会でもあった。各国は中国への外交文書を記すとき、他国に見劣りしない文章を書くという点で鎬(しのぎ)を削っていたのであり、上表文の提出はもう一つの“戦場”であった。


同上

このように、百済の外交文書も中国の書籍を典拠としてその用語を駆使している。
 武の上表文では五経など古典の語句が多用されているのに対して、百済の495年の外交文書では史書が典拠とされる傾向にある。しかし、中国で用いられる語句を選択して文章を作成している点は同じである。それは、両国とも中国文明を尊崇し学んでいることの表明である。


同上

府官として倭の五王のもとで活躍した中国系人士は、倭国に住み着くようになっても学問的な知識を忘却することはなかった。府官たちは自らの持つ知識を総動員して外交文書を書いた。


同上

最後の引用箇所については根拠がこの本の中でそれほど示されていないと思いましたが、推測としては充分あり得る推測だと思います。


このようにしてみると、日本の国家形成期における中国文明の影響の大きさを感じます。それは古事記日本書紀を読んだだけでは感じることの出来ないものだと思います。