聖杯伝説をめぐって(3)

これは聖杯伝説について私が思っていること感じていることを気ままに書いているものです。


では聖杯と何か、についてですが、ブルフィンチの「中世騎士物語」ではこう説明されています。以下の文章では聖杯はサングリアルという言葉で表されています。

サングリアルというのは、救世主が、最後の晩餐の折、それから飲んだと言われる盃である。救世主はその盃をアリマタヤのヨセフに与え、ヨセフはそれを、救世主の肩を貫いた聖なる槍とともに欧州へ持ってきたと想像されているものであった。アリマタヤのヨセフの子孫の一人が、代々この聖物守護のために生涯を捧げた。そのためには、考えること、言うこと、そして為すことのことごとくが、純潔でなければならないという厳しい条件がつけられていた。長年の間、サングリアルの盃は、あらゆる巡礼者の目に見られていた。これが在るということは、その土地に神の恩寵が垂れている証拠となっていた。ところが、守護の役に仕えていた何代目かの子孫の一人が、神聖な義務をつい忘れて、一人の巡礼女が彼の前に跪(ひざまず)いたときに計らずもその服が解けたときその役目にあるまじき日で眺めたのであった。聖なる槍は、真直(まっすぐ)に彼の上に落ちかかって深い傷を負わせ、罪を罰した。奇跡の傷はいかに手をつくしても癒(なお)らず、サングリアルの盃は、それを拝もうと思って来る人たちの目から目に見える形をかくしてしまった。


ブルフィンチ「中世騎士物語」の「第十九章 サングリアル(聖杯)」より


いやあ、恐ろしい話です。私がその守護者だったならば確実に聖槍に罰せられますね。
ところで「アリマタヤのヨセフ」というのは私はよく知らなかったのですが、磔にされたイエスの遺体を引き取った人だということです。また、最後の晩餐についても少し見ていきたい思います。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また盃を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この盃から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。


マタイによる福音書。26・26-29

最後の晩餐でイエスが自分の血であるとして弟子たちに与えたワインを入れていた盃、これが聖杯だったわけです。もう少しこの時の状況を感じ取るためにこの前後も引用してみます。

 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。


マタイによる福音書。26・14-29

イスカリオテのユダの裏切りを間近に控えた、非常に緊迫した場面でした。


さて、聖杯がこのような背景を持つことは、ワーグナーパルジファルでも聖杯が登場するところで

最後の食卓のワインとパン・・・
それを、かつて聖杯の主は、
共に苦しむ愛の力をもって
ご自身の流された血に変え、
ご自身が差し出す体に変えたのです。


訳はオペラ対訳プロジェクト:パルジファル ACT Iより。この訳は非常な労作です。

あるいは

受け取りなさい、私の体を。
受け取りなさい、私の血を。
私たちが愛し合うために!


同上

と歌われていることで、示されています。