風土記の世界

風土記の世界 (岩波新書)

風土記の世界 (岩波新書)

風土記というのは若い頃から興味があって、自分の本棚の中には岩波の日本古典文学大系風土記があります。風土記は読むのに努力が要りますが、時折、何か新しい発見があるので何十年も手放さずにいます。


この三浦氏の「風土記の世界」は現在では数少ない風土記の解説書です。この本では、現存する5つの風土記常陸国風土記」「出雲国風土記」「播磨国風土記」「肥前国風土記」「豊後国風土記」の全てを取り上げていますが、その中でも「常陸国風土記」に重点が置かれているように見えました。なかでも「常陸国風土記」に出てくる「倭武(ヤマトタケル天皇」という記述につての考察が面白かったです。私も「常陸国風土記」を読んだ時に「倭武(ヤマトタケル天皇」という表記やそこに現れる記述に違和感があったのですがそれが何だったのか自分では分かりませんでした。それが著者の次の文章によって明瞭になりました。

走水で最愛の妃を犠牲として海峡の神に捧げ、みずからは生き延びた勇者を描こうとするなら、どこかほんの少しでも翳りを帯びるはずだ。古事記ヤマトタケルをみればよくわかる。オトタチバナヒメの入水後は、死に向かうしかないのである。ところが常陸国風土記のどの伝承をみても、倭武天皇も后も楽しそうに巡行するばかりだ。

そうでした、と私は思いました。「常陸国風土記」の中のヤマトタケルには「翳り」がないのでした。著者はこのことも絡めて「倭武天皇」という表記のことから以下のような推理を働かせます。

 律令国家へと拡大するヤマトの王権には、わたしたちが認識している歴代天皇の継承が固定化する以前の伝えがあり、そこではヤマトタケル天皇になったという系譜をもっていた。そしてその人物は(中略)常陸国を含めた東国や蝦夷の地を征服する天皇として語られていた。(中略)
 そしてその段階においては、ヤマトタケルの、遠征途上での悲劇的な死は伝えられていなかったはずである。東への遠征が通過儀礼として機能することによって、ヤマトの勇者タケルは皇位に即くことができた。あるいは、倭武天皇が東の国々を巡行し平定したという伝承が語られていた。ところが、その英雄に悲劇的な翳がきざし、遠征の帰途、伊勢の能煩野(のぼの)での死が語られはじめる。
 その段階になって、中央の歴史からヤマトタケル皇位継承が消えてゆく。ところが、常陸国においては、悲劇的な死が語り出される以前の、天皇として巡行するヤマトタケルが生き続けており、常陸国風土記にはそれが採用された。

そして著者はこう結論します。

 常陸国風土記の倭武天皇の伝承は、天皇家の歴史が確定する以前の、「もう一つ」の歴史や系譜を垣間見せている。古事記でもなく、ましてや日本書紀でもない伝承や系譜が、じつはいくつも存在したのであり、常陸国風土記はその一つにすぎない。そうしたことを浮かび上がらせてくれるという点だけでも、常陸国風土記が今に遺された意味ははかり知れないほど大きい。


本の終わり近くに

浦嶋子や天女のようにしばしば紹介される風土記逸文の伝承もあるが、それ以外にも古風土記逸文とされる記事は多い。それら断片化された伝承を読んでいると、もしその国の風土記が遺されていればさぞかしおもしろい話があったろうにとか、古代の日本列島を考えるうえで参考になることが多かったろうにとか、無いものねだりだということはわかっていながら悔やんでしまう。

という文章があるのですが、私も長年、そう思ってきたので、この文章を見て、著者の風土記への愛を感じたのでした。