ミュケーナイ文書の中の「迷宮の女神」
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に関連して、私の考えをまとめたいのですが、まだまとまっていません。まとまっていませんが、コメントのそのまた注釈として
- 作者: J.チャドウィック,安村典子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1983/06
- メディア: 単行本
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という記事について、それが実際どんなふうに書かれていたのか紹介します。
神々を解明しようとして文書に目を向けてみても、私たちの期待は大きく裏切られるばかりである。そこには神学的文書もなければ、讃歌さえなく、また神殿の寄進もなければ、ミノア人がしばしば奉納物に添えたような短い銘文さえ見られない。神々はただ、王宮の行政官たちによって支給(奉納)された物品の受領(嘉納)者として粘土板に登場するだけである。
(「ミュケーナイ世界」J.チャドウィック より)
だから、私が関心を持っている迷宮の女神について、ミュケーナイ文書から情報を得ることはほとんど出来ません。
線文字Bの各文字に対してヴェントリスが暫定的に定めた音価をクノーソスの粘土板で試してみるという仕事を私は1952年から始めたのだったが、最初に私の注意を惹きつけた文書の一つが粘土板V52であった。それは2行にわたって記された小さな粘土板で、右側は破損していたが、二行目の末尾にあたる小さな断片も別に残っていた。これを転写すると次のようになる。
a-ta-na-po-ti-ni-ja 1 [
e-nu-wa-ri-jo 1 pa-ja-wo[ ] po-se-da[最初の語は、古典学者なら誰でもこれを二語に分けて、Athana potnia「女君(ポトニア)アテーナー」と読むにちがいない。これはホメーロスの語形potni(a) Athenaieとほとんど同じである。
(同上)
ここにpotnia(女君、あるいは女神、貴婦人、などの意味)という語が出てきます。しかしこの箇所では迷宮の女神は登場しません。登場するのは次に引用する箇所です。
- 注:線文字Bは古代ギリシア語のための文字であるのに不思議なことに、日本語のひらがなやカタカナのような音節文字なのです。それはギリシア語を書くのには不便な文字です。学者は、古代ギリシア人がこの文字を先進文明から借用したためにこのような現象が起きている、と説明しています。我々日本人がカタカナで英語を書き表す時のように、この方式では余分な母音が入ってしまいます。上の例でpo-ti-ni-jaは、余分な母音を除いてpotniaと読むのが正しいのだそうです。
ポトニアに言及した粘土板を全部集めてみると、注目すべき事実が浮かび上がってくる。すなわちそれは(中略)前後いずれかに限定修飾語を伴っていることである。(中略)クノーソスではda-pu2-ri-to-jo po-ti-ni-ja(Gg 702)という用例がある。このda-pu2-ri-toはlaburinthos「ラビュリントス」(英語のlabyrinth「迷宮」)という語に非常によく似ている。ちなみに、laburinthosは -nthosという接尾辞が示すように純粋なギリシア語ではなく、ギリシア先住民族の言語からの借用語であるが、このような借用語においてdとlがしばしば混同されることは、たとえばOdusseus「オデュッセウス」がギリシア語の方言によってはOluseusとなったり、ラテン語においてはさらに新たな変化を伴ってUlixesないしはUlyssesとなったりするのと同様な現象である。
(同上)
これだけです。迷宮の女神は私にとっては、その存在を確認しただけの、謎のままの女神です。すこしヒントになるのは次の箇所です。
古典時代のギリシア人がポトニアイ(ポトニアの複数形)の名で思い浮かべたのは、デーメーテールと、その娘であり、冥界の女王となったペルセポネーであった。これはとりもなおさず、ギリシア先住民族の地母神崇拝が形を変えて古典時代まで受け継がれたことを示している。
(同上)
ミュケーナイ文書には、後世のギリシア神話には登場しない神名がいくつも登場します。(トリスヘーロース、コマーウェンテイア、プレスワー、イペメディア、ディウヤ、ポシダエイア(ポセンドーンの女性形)) その背後にはいろいろな物語があったことでしょう。私の心に長年ひそんでいるのは、そのような失われた神話の量の多さに対する尊重の念です。