ただの妄想だけど・・・・

ただの妄想なのですが、Googleにとっての三十年戦争は、同時多発テロ以降のこの一連の戦争なのだろうか、という思いがしたので、書いておきます。

三上のブログの、三上さんの新年度の講義が始まることを知らせる情報文化論 2007 第1回 情報文化論とは何か:情報は編集されるの記事の中で、参考(文献?、ページ?)として情報文化論が示されていたのでそこを(長いので飛ばし飛ばし)読んでいました。その時、読んだ以下の文章から私の妄想が始まりました。

資本主義は宗教を追いつめ、差別を助長した。人類は差別化による相対的なアイデンティティに縋りながら近代戦争に突入する。国家と国民のために、人類は文化を破壊し始めた。国家や国民を盾にして文化を破壊する輩が跋扈する時代、それが現代である。外側では破壊が横行し、内側では崩壊が進行した20世紀が終わり、21世紀は建設と再生の世紀になるだろうとは誰も予想はしなかったが、案の定、2001年9月11日以来、世界は見えにくい「第三次世界大戦」に突入した。テロとの戦いという口実の裏で、大国による一方的な破壊が報道メディアの無能をあざ笑うかのように平然とまかり通り始めた。残念ながら、日本はそれに積極的に加担した。せざるを得ない理由すら明らかにしないままに。

三上さんの文脈は、このあとに

そんな時代と世界にあって、頼りになる情報源へのアクセス手段は皮肉にも軍事技術由来のインターネットである。しかもインターネットは人類がかつて経験したことのない大規模な連帯ないしは共同の場にもなりうることをここにきて実感する人々が少しずつ増えてきた。80年代に個人にとっての「柔らかい武器」として産声をあげたパソコン、そして90年代後半に「脆いつながり」として広がり始めたインターネットは、すでに単なるヴァーチャル・コミュニケーションの手段としてではなく、もうひとつのリアル・コミュニケーションの手段として確立した。そして現在、インターネットを抜きにして、世界の将来を展望することは不可能になった。むろん、問題なのは使い方である。世界を後退させるような使い方がまだまだ主流である。しかし、インターネットが「強力な抵抗の武器」として機能する現場を私たちはその気になればいつでも見ることができる。

と続いていくのですが、私はそのような文脈とは無関係に、9.11以降を「第三次世界大戦」とする見方に対して、心の奥のほうから「いや、これは三十年戦争なんだ。だらだらと戦争は複数回断続的に続くのだ」という予感が出てきました。すると今度は私のブログのコメントでの三上さんとのやりとり

CUSCUS
『3)
>グーグルのアキレス腱はどこにあるか、が私の知りたいことです。

なるほど、そこで昨日のコメントで「挫折」の物語を希望されたのですね。ところで、薔薇十字運動の挫折は、ドイツにおける三十年戦争です。これは表面的な原因かもしれません。』

elmikamino
『3)に関しては、とにかく見えないところが多すぎるので、勉強するしかないですね。「薔薇十字団」にとっての「三十年戦争」に相当するもには、グーグルにとって一体何かということですね。面白い推理ですね。何でしょう?』

が思い出されて、Googleと薔薇十字団、同時多発テロ以降の戦争とドイツ三十年戦争、という類比が働いたのでした。
Googleと薔薇十字団、同時多発テロ以降の戦争とドイツ三十年戦争』 こうやって書き出してみると無理のある想定であると自分でも思います。しかし、それでも何か薄気味悪いものを私は感じます。三十年戦争は最後の宗教戦争という位置づけがなされています。そしてその結果は、カトリックプロテスタント両陣営のいずれかが勝利したのではなく、結局、両者の共存が確認されたのでした。そしてそれよりも大切なのは、カトリックプロテスタントという宗派よりも国家利害のほうがより重要である、という認識が一般化したことでした。

  • このあたり

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今のアフガニスタンイラク戦争は何が争点なのでしょうか、やはり宗教なのでしょうか? 文明なのでしょうか? そしてそれはどのような決着をもたらすのでしょうか?
以上、私の妄想でした。