私のロールモデル

梅田望夫氏と齋藤孝氏の対談「大人の作法(前編)」を読んで、そこに登場する「ロールモデル」という考え方に興味を持ちました。その中で、齊藤氏は

福澤諭吉も、ロールモデルとして消費する対象の一人です。諭吉だけでなくて、好きで自分に似ていると思う人というのは、その人の著作を読んでいて爆笑してしまうんですよ。ドストエフスキーの小説を読んでいても爆笑してしまうし、ニーチェを読んでいても笑いが止まらない。「こいつは、ほんとになあ」「ここまで言っちゃうんだ」みたいな。自分とシンクロする場面は、自分を笑えるように、読んでいて笑ってしまう。スケールで考えると、自分がニーチェ福澤諭吉のようなスケールで生涯を終えるとはさすがに思わないけれど、そういうことを僕はあまり問題にしていません。スケールの違いというのはたいした問題ではなくて、「傾向」が似ているというか、梅田さんの言葉でいう「存在のありよう」に、自分が似ているかどうか、あこがれるかどうかが重要だと思っています。

と述べています。それに触発されて(それに「スケールの違いというのはたいした問題ではなくて」という話なので)私にとって「ロールモデル」になっているのは誰だろうか、と考えたところ、どうもそれはノーバート・ウィーナーだろう、と思い当たりました。彼に対しては尊敬するのではなく「シンクロする」という感じがするのです。にもかかわらず、彼の言うことを理解するには広い範囲のかなりの予備知識を要求され、それが刺激になります。また、彼の業績がもっと整理できていれば、こんなに忘れ去られることもなかったのに、と思っています。現代にとってウィーナーの述べたことがどのような意味を持つのか、非力ではありますが明らかにしていきたい、と思っています。(そんなこと言ったってルベーグ積分すらよく理解できないのに・・と、もう一方の私が言うんですが。)