「サイバネティックス」という本の「序章」(8)

上位エントリ:サイバネティックス
先行エントリ:「サイバネティックス」という本の「序章」(7)


序章の最後は、自動工場の実現可能性と、それによって大量の失業が発生し社会がより悪くなる可能性を危惧する文章が続いて、この長い序章は完了します。

 今一つ、次のことは注目に値しよう。私にはだいぶ前からわかっていたことであるが、現在の超高速計算機(CUSCUS注:これはこの時代1948年にとっての「超高速」であって、今の感覚では単に「コンピュータ」という言葉に置き換えるとよいと思います)は、原理上、自動制御装置の理想的な中枢神経系として使用できる。・・・・・私が気づいたことは、われわれは善悪を問わず未曾有の重要性をもった社会革命に当面しているということであった。自動工場、すなわち工員のいない一貫組立工場は、今までのところ実現されてはいないが、その実現を阻んでいるものは、ただわれわれが第二次世界大戦中に、たとえばレーダーの技術の進歩にそそいだ程度の努力をしていないからにすぎないのである。

幸いウィーナーが当時考えるより、自動工場の実現は困難であったので彼の危惧は当たりませんでした。しかし、当時はソ連との冷戦のさなかであり、それがいったん第三次世界大戦に転化してしまったならば国の政策によって急速に自動工場が進展するだろうと彼は予想し、それを怖れたのでした。また私が推測するには、ウィーナーが自動工場の実現をより間近なことと考えていた理由のひとつはプログラミングの大変さを理解していなかったためだろうと思っています。彼はおそらくは人間の「通常の」知的能力の一部を代行するソフトをプログラムするのがどれほど大変なことかを理解してはいませんでした。それも無理はなくて、当時はまだコンピュータが産声を上げたばかりの時なのでした。

人間の仕事をやってくれる新しく、かつもっとも有能な機械的奴隷の集団を人類がもつことになるのである。このような機械的奴隷は、奴隷労働とほとんど同等な経済的性格をもっているが、違うところは、人間の残虐という不道徳を直接にはもたらさないという点である。しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、それは本質において奴隷労働にほかならない。

ここにきて社会思想家、ペシミスティックな未来学者としてのウィーナーが顔を出します。彼はこれを第二次産業革命と呼びます。

・・・・現代の産業革命は、少くとも簡単な一定の型にはまった判断力だけですむような仕事の範囲では、人間の頭脳の価値を下落させつつある。・・・・第二次革命が終了した場合、ふつう、あるいはそれ以下の能力をもった世間一般の人間は、金を出して購うに値するものを何ももたなくなるであろう。
 この問題に対する回答は、もちろん、売買よりも人間の価値を尊重する社会をつくることである。このような社会に到達するためには、われわれは十分な計画と、ひじょうにうまくいったとしても思想の面で生ずる多くの闘争とを必要とする。もしそうしなかったとしたら? それは誰にもわからないことである。

私がウィーナーに魅かれるのは、おもにこのような面です。この後に登場するのは「サイバネティクス誕生時のペシミズム」でも引用した以下の文章です。

 このようにして新しい科学、サイバネティックスに貢献したわれわれは、控え目にいっても道徳的にはあまり愉快でない立場にある。既述のように、善悪を問わず、技術的に大きな可能性のある新しい学問の創始にわれわれは貢献してきた。われわれはそれを周囲の世間に手渡すことができるだけてあるが、それはベルゼン*(Belsen)(原注:ハンブルク近郊ベルゲンドルフに設けられたナチの強制収容所)や広島の世間でもある。われわれはこれら新しい技術的進歩を抑圧する権利をもたない。これらの進歩は今日の時代のものである。われわれがそれを抑圧しても、その発展を、最も無責任で欲得ずくの技術者たちの手に委ねることにしかならないであろう。われわれのなしうる最善のことは、この研究の動向と意義とを広く周知せしめ、この領域におけるわれわれ個人の努力を、生理学や心理学のように戦争や搾取からもっとも遠い分野に限定することである。

最後はこの文章で締めくくられています。

・・・この新しい領域の研究によって人類と社会の理解を深めることができるという善い成果が挙がり、その方が、危険よりもずっと大きいという希望をもつ人々もいる。私は1947年にこの本を書いているが、そういう希望は根拠薄弱であると言わねばならない。


最後に『「サイバネティックス」という本の「序章」(1)』から(8)までのまとめを『「サイバネティックス」という本の「序章」(まとめ)』に示します。