ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ

グーグルは薔薇十字っぽい」でコメニウスについて薔薇十字団の関係から紹介したことが自分の中で尾を引いています。そこで薔薇十字団員と目された他の人々についても紹介したくなりました。もちろん私自身、薔薇十字団は実在しなかった、と考えています。しかし、それは16世紀前半の三十年戦争というある種のイデオロギー(宗教)戦争の下にあるドイツとその周辺の国々における知識人の苦悩の一端を表現しており、まじめに研究するに値するものであると思っています。(私の知識の多くはフランセス・イエイツの「薔薇十字の覚醒」に基づいています。私自身はドイツ語もフランス語もさっぱり読めないただの物好きです。)
今日、ご紹介する「薔薇十字団員と目された」人物はヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエです。16世紀前半ヨーロッパに起った薔薇十字騒動については「薔薇十字団」を参照下さい。要するに、1614年に「友愛団の名声」1615年に「友愛団の告白」1616年に「クリスチャン・ローゼンクロイツの「化学の結婚」が発行され、これらの文書がほのめかす謎の団体「薔薇十字友愛団」をめぐって当時の知識人達が大騒ぎをしたのでした。


デモキデス あなたもあのロッジに所属しておられたのでは?
テオフィルス 私のことをほじくり回そうとなさっても無益な企てです。憶測を立てられても幻滅に終わるだけでしょう。

これは、「化学の結婚種村季弘訳・解説、

化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉

化学の結婚――付・薔薇十字基本文書〈普及版〉

の解説の中に引用されたアンドレーエの著書、対話篇「テオフィルス」の一節だということです。「あのロッジ」というのは薔薇十字団のことです。このようにアンドレーエは自分の著書の中で、薔薇十字への関与を否定しています。ということは、世の中の人々は逆に彼の関与を疑っていたのでした。種村季弘訳「化学の結婚」からもうひとつ引用します。

 作中人物の口からではなく、アンドレーエ自身の筆になる確たる証言としては、晩年に近い1643年にブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルのアウグスト候に宛てた半生回顧の一節がある。「我が薔薇十字の結社は現実には存在せず、いかにもありそうな作り物なのです。」

ここで挙げられている1643年というのがどんな年かといいますと、1618年から始まった三十年戦争が終末期を迎え和平の動きが出てきた頃ですが、和平を自陣営に有利に運ぶためにさらに戦争を続けるという状況になっていました。フランスは数年前から、自身がカトリック国でありながら、同じカトリックハプスブルク皇帝家に宣戦し、この戦争がもはや宗教戦争ではなくなっていることを公的に認めてしまいました。この年にフランス軍は、ロクロワ会戦でカトリックのスペイン軍を撃破しています。


ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(1586〜1654)の祖父ヤーコプ・アンドレーエは、ルター派カルヴァン派の統一の試みの結果としての信仰箇条である『和協信条』(1580)の編者のひとりで、「ヴュルテンベルクのルター」とも言われたヴュルテンベルク公国(当時の神聖ローマ帝国内の公国の1つ)の高位聖職者でした。ヨハン・ヴァレンチン・アンドレーエはチュービンゲン大学に学び若くして聖職者としての経歴を約束されていましたが、ヴュルテンベルク公の参事会員のひとりを攻撃するパンフレットを発行したために(この項「薔薇十字団」による)、勉学を中断せざるを得なくなります。数年後に復帰して1614年には牧師となり、高位聖職者の姪と結婚して順調に人生が進み始めました。しかしその年に「友愛団の名声」が隣国ヘッセン=カッセルで発行され薔薇十字騒動が巻き起こったのでした。そして翌年には「友愛団の告白」、その翌年には錬金術的小説「化学の結婚」が発行され、この騒動はますます大きくなりました。何人かの事情通は、この作者としてアンドレーエの名前を挙げました。彼は自分の関与を否定し続けますが、一方で、薔薇十字からオカルト色を取り去った、キリスト教精神による友愛団体である「キリスト教協会」を組織します。この組織は1620年、三十年戦争の影響で消滅してしまいます。しかしこの組織は戦争という現実を何とか転換しようとする幾人かの人々に影響を与えたようでした。彼は自分の薔薇十字への関与を否定し続けながら、神学的著作を次々と発刊し、(プロテスタント陣営)ヴュルテンブルク公国の宗教官僚の経歴を続け、カルフのビショップ在任中の1634年には皇帝軍によってカルフが破壊されるという災厄に会いながらもヴュルテンブルク公国に留まり最後にはシュトゥットガルトの宮廷牧師兼宗教局評定官に就任し、1654年に死去しました。
しかし「化学の結婚」については上で述べたアウグスト候への手紙の中で自分が作者であることを認めていました。この書簡は彼が生きている間には公表されず、1799年になってやっと発見され、世の中に明らかになったのでした。