不思議の国のアリスのクローケーゲーム

ウィーナーの著作を見ていると同じたとえが複数の本に登場するのに気づきます。そのひとつが不思議の国のアリスに登場するクローケーゲームです。この世が何らかの法則に従っている(この世は気まぐれが支配しているわけではない)ということを述べる文脈でこのたとえが登場します。

 科学が成立するためには、たがいに孤立しない現象が存在することが必要である。気まぐれを起こしやすい、理性のない神様が次々と奇跡をおこなうような世界では、われわれは恐れおののいて、新しい大変災の起るのを待つほかはない。われわれはこのような世界のありさまを’不思議の国のアリス’の中のクローケー遊びに見ることができる。その話の中では、木づちは紅鶴であり、木球は山あらしであって体を延ばしてどこかへ行ってしまう。柱門はトランプの兵士であって同じく勝手に歩きだす。またこのゲームの規則は、おこりっぽくて気まぐれなハートのクィーンの法令で行われる。


サイバネティックス 第2章 群と統計力学 より

あるいは

自然は法則に従うものであるという信仰なしには、いかなる科学もありえない。どんな大量の実例も、自然は法則に従うということをけっして証明することはできない。われわれのあらゆる知識にもかかわらず、世界は次の瞬間から『ふしぎの国のアリス』のクローケーのゲームのようなものになるかもしれない。そこでは、球はすべて足のはえハリネズミで、柱門はすべて芝生のあちこちへ移動する兵士であり、ゲームのルールは女王の勝手な宣言によって刻々に変更される。


人間機械論 XI 言語、かく乱、通信妨害 より

自然界は、何らかの法則に従って動いている。そしてその法則は変更されない、という信念です。私はまだ完全に追跡しきれていないのですが、この信念からウィーナーはエルゴード性「当然そうあるべきこと」と考えていたようです。(そうであるからたとえ世界が確率的にしか把握出来ないにしても、現象の過去からの振る舞いを観測し統計をとることによって、未来を確率何%で予測することが出来る)。逆にエルゴード的でない世界というのはアリスに登場する女王のクローケーゲームのような世界です。ここではゲームのルールがどんどん変わっていってしまい、過去の観測から得られたデータを未来の予測に役立てることが出来ないか、困難になります。ところが自然界から生物界、そして人間社会へと視点を移すともはや法則の恒常性が成り立たなくなり、世界は女王のクローケーゲームの様相を帯びてきます。例えば経済学へのサイバネティックスの応用に対してウィーナーは否定的なのですが、それは経済のゲームのルールがどんどん変化していくから、という理由からです。

 したがって、経済ゲームはルールが例えば10年ごとに重大な修正を受けるようなゲームであり、すでに述べた『ふしぎの国のアリス』にでてくる女王のクローケーのゲームと似た困難をもっている。こういう条件のもとでは、そのなかにでてくる量をあまり精密に測定することはむだである。


科学と神 より

自然界と人間社会のこの差はどこから出てくるのでしょうか? これは私には大きな問題であり、まだ追い切れていません。ウィーナーのサイバネティックスの構想の根幹にも係わる話題だと思っています。これについては考えがまとまったら、また述べてみたい、と思います。


まだ勉強出来ていないのですが、金融工学(少なくともその一部)とはウィーナーの危惧する方向へあえて挑んでいったものではないかと直感しています。そのあたりは下の本を読んだら分かりそうな気がしています。

一般均衡の探究』が師である哲学者クワインの『哲学事典』(ちくま学芸文庫)のスタイルに影響を受けていること、オプション価格公式の根底にある確率過程論についてもウィーナーの研究に高校時代に親しんでいたこと、など、経済学、金融学以外の分野からの思想的影響についても非常に周到かつ啓発的なヒントが示され、著者自身の幅広い教養に感服します。

    • とあって、ウィーナーの研究に高校時代に親しんでいたことという部分に反応したことです。