フラジャイルなものへの配慮

中山さんの「「シュンポシオン横浜」は☆の会なのかもしれない----横浜逍遥亭」のコメントのところで皆さんが繰り広げておられたこの集まり(?)の「脆弱さ」を巡る議論、それも「脆弱さ」を肯定的に話している議論、を読みながら、私の頭の中に何回か「松岡正剛の『フラジャイル』」(という本)(fragile:脆弱な)という言葉が浮かんできました。そうは言っても松岡正剛のいう「フラジャイル」の意味を自分がよく把握しているか不安だったので、今までそのことを書くことにちょっと躊躇がありました。
ところが今日、比嘉さんのブログの「僕と、江島健太郎さんが交わした「盾」について----読谷の飛行場に想う。」に引用された江島さんという方の言葉に「松岡正剛の『フラジャイル』」が登場したのを見つけて、それを読んだ私は、比嘉さんの文脈とは異なってしまうかもしれないけれど、「うん、そういうことなんだよなあ」とヒザを打ったのでした。それはこういう文章です。

村上龍の解説をみると、そこでの主題はむしろ柔らかさ、優しさのことであって、そういう意味では松岡正剛の「フラジャイル」に書かれているような意味での「弱さ」についてのことだと思った。

弱さは、強さよりも深いんですよ。弱さとは、強さの欠如ではなくて、それ自体が多様性をもつ不思議な存在。そういうものを内包している人間のほうが、強さを誇示する者より圧倒的に美しい。

で、この言葉を先ほどの「「シュンポシオン横浜」は☆の会なのかもしれない----横浜逍遥亭」での一連のコメントにつなげたいな、と思って、以上のことを書きました。(他人のふんどしで書いているようなものですね。)


私が名古屋会議で感じたのはフラジャイルなもの(それは個人個人で違うかもしれませんが)への配慮だったと思います。そして、そもそもブログを書くこと自体がフラジャイルな行為であり、そのために皆さんそのような配慮を持っているのでは、などと考えました。