「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(1)

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次に「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」の内容を検討していきます。
第1章は次の話から始まります。

 ドイツの子供達にはだれにもよく知られているかわいらしい聖歌がある。・・・・・”空高く輝く星は、いくつあるか知っていますか。空遠く流れる雲は、いくつあるか知っていますか。(星も雲も)たくさんたくさんあるけれど、一つも数え落しのないように、神様は数えられたのです。”
 このかわいい歌は、自然科学の哲学や歴史の学者には次の意味で興味のあるテーマを提供する。すなわちこの歌は、ちょうど天文学と気象学の二つをならべて歌っているが、これら二つの科学は・・・・・極端な対照をなすものなのである。・・・・・天文学上のよく知られている現象は何世紀にもわたって予報できるが、明日の天気を正確に予報することは一般にやさしいことではなく、いろいろな点で実際ひじょうに未熟なものなのである。


この冒頭からだけではウィーナーが何を言いたいのか判然としません。しかし読み進んでいくと、天文学がウィーナーの言うところの「ニュートンの時間」の代表として、そして気象学が「ベルグソンの時間」の代表として考えられていることが分かります。そして「ニュートンの時間」と「ベルグソンの時間」の違いは何かと言えば、それは逆戻り出来る時間と出来ない時間の違いのようです。逆戻り出来るといっても文字通り過去に戻るといった話ではなく、過去と未来の反転に対して対称的かどうか、ということを意味しています。それは以下の引用で明らかになります。これは天文学についての言及です。

惑星の運動を映画に撮り(CUSCUS注:この本の出版が1948年であることに注意。今なら「ビデオに撮り」と言うところでしょう)、その運動状態がよくわかるように高速化してからフィルムを逆にまわしたとしよう。そのとき見られる運動の状態も、やはりニュートン力学に矛盾しない、可能なものなのである。

そしてウィーナーはこのことを詩的に

天球の音楽は、前から聞いても後から聞いても同じ

である、と表現しています。それに対して気象学のほうでは

一方、入道雲のなかの渦乱流の映画をとって逆回転すれば、まったく奇妙なものに見えるであろう。上昇気流のあるべきところに下降気流が生じ、渦乱流の構造が次第に粗くなっていったり、雲の変化の後に来るべき稲妻が先にきたり、そのようなことが数限りなくつづくであろう。

だとすれば、世の中の出来事のほとんどは、フィルムを逆回しにすると奇妙な(しばしば笑える)光景に見えるわけですから、ウィーナーの言い方でいえば「ベルグソンの時間」にあたることになります。


ところでウィーナーはなぜ、このような議論を始めたのでしょう? これと通信理論や制御理論と、はたまたコンピュータと、何の関わりがあるのでしょう? ここのところをはっきりさせるのが結構大変そうで、正直なところ現時点での私の課題です。
さて、ウィーナーはこう問いかけます。

天文学における時間の可逆性と、気象学における時間の非可逆性とのちがいは何によるのであろうか?

これに対する彼自身の答は多岐に渡っているのですが要点は次のようです。

天文学については)太陽系に属する天体の任意の時間における位置・速度・質量は、ひじょうによくわかっており、その将来の位置と過去の位置は、詳しく計算するのは容易ではないが、原理的には容易に、また正確に計算できるものである。一方、気象学においては関与する粒子の数が膨大なものであるから、その初めの位置や速度を正確に記録することはまったく不可能である。

ここでポイントは2つあると思います。

  • ひとつは天文学では少数の粒子(惑星や衛星の大きさも太陽系全体から見れば点として扱ってよい大きさです)を扱うのに対し、気象学では莫大な量の分子(おもに水や空気中の窒素、酸素の分子)を扱うこと。
  • もうひとつは、天文学では惑星や衛星の位置・速度・質量の正確なデータを「私達が」知ることが出来るが、気象学では水や空気(窒素、酸素)の個々の分子の数が膨大なため位置・速度・質量の正確なデータを「私達が」知ることが出来ないこと。

です。これは一見、もっともらしく見えますが、よく考えると私には疑問に思える点があります。


「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(2)」に続きます。