「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(4)

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「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」をさらに読んでいきます。

 ニュートンの可逆的時間からギブスの非可逆的時間へのこのような変遷は、哲学上の反響を呼びおこした。物理学の可逆的時間では新しいことは何も起こらない。他方、進化論や生物学の非可逆的時間では、たえず新しいことが起ってくる。ベルグソンはこのちがいを強調したのである。生気論(vitalism)と機械論(mechanism)とのあいだの古くからの論争の中心問題は、おそらくニュートン物理学が生物学を扱うための枠としては不適当ではないかという認識にある。しかもこの論争は、唯物論の侵入に対抗して霊魂や神の痕跡だけでも何等かの形で保とうという望みによって、よけい複雑になったのである。・・・・・なるほど、新しい物理学における物質は、ニュートンの物質とはちがうが、生気論者の希望する擬人化されたものとははるかに遠いものである。量子論者のいう偶然は、アウグスチヌスのいう倫理的自由ではなく、テュケー(Tyche)はアナンケ(Ananke)に劣らず無常な女神なのである。

「ギブスの非可逆的時間」と言っているのは、「ギブス」が統計力学の建設者の一人であるウィラード・ギブスのことを指しているので「統計力学の非可逆的時間」と理解すればよいと思います。「アウグスチヌスのいう倫理的自由」というのは勉強不足で理解しておりません。おそらく「自由意志」のことを言っているのでしょう。この箇所でウィーナーが表現したいのは、量子力学でいうところの、確率的しか未来が予測出来ないという理論は、人間が自由意志を持つということを保証するものではない、という意味でしょう。次に、テュケーはギリシア神話の「運、偶然」の女神、アナンケは「必然」の女神です。偶然は必然におとらず無常な女神である、ということです。

少し飛びますが、ここの文章は以下に示す、第1章の最後の文章と呼応しているようです。

 このように現代の自動機械は、生物体と同種のベルグソン(Bergson)の時間のなかにある。したがってベルグソンの考察のなかで、生物体の機能の本質的な様式が、この種の自動機械と同じではないとする理由はないのである。機械論でさえ、生気論の時間構造に符合するというところまで、生気論は勝利をおさめたのであるが、この勝利は既述のように完全な敗北であった。道徳あるいは宗教に少しでも関係のある立場からみれば、この新しい力学は古い力学と同じく完全に機械論的であるからである。われわれがこの新しい立場を物質論的と呼ぶべきかどうかはおよそ言葉の上での問題に過ぎない。物質の優位は現代以上に19世紀の物理学の一つの相を特徴づけており、“唯物論”は単に“機械論”とほとんど変わりない同義語となった。事実、機械論者−生気論者間の論争はすべて、問題の提出の仕方が拙なかったために生じたものであって、すでに忘却の淵に葬り去られたのである。


現代の自動機械(コンピュータなど)も生物と同じように非可逆の時間の中にある。だから現代の自動機械も生物に似てきている。今までの(「今まで」というのは1948年当時という意味で)機械が生物に似ていそうもなかったのはニュートン物理学的な機械であったためである。現代の機械はよりベルグソン的な時間に属しているので、機械が生物により似てくるのである。それは生物を一種の機械として考えることをも可能にする。そして生気論は葬り去られるだろう。
こんなところがウィーナーの主張したいところでしょう。しかし、ニュートン物理学的な機械とか、ベルグソン的な機械とか、それらはいったい何を意味するのでしょうか?
どうも現在の機械の状態から未来の状態を予測できるのがニュートン物理学的な機械であり、予測出来ないのがベルグソン的な機械のようです。たとえば、時計はニュートン物理学的な機械であり、一方、センサーからの入力によって動作を変える現代のさまざまな機械はベルグソン的な機械のようです。
そうは言っても、これは程度問題のような気もします。たとえば髪を乾かすのに使用するドライアーはどっちに属するのでしょうか? 現在、スイッチの入っていないドライヤーが1時間後に動作しているかどうかは、その後誰かがスイッチを入れたかどうかによります。そういう意味ではドライアーの現在の状態から未来の状態を予測することは出来ません。それではスイッチはセンサーでしょうか? どうもそうではないような気がします。もしスイッチがセンサーであるならば、世の中にあるほとんどの機械はベルグソン的な、より生物に近い機械になってしまいます。残念ながら私にはウィーナーの提出する問題がぼんやりとしか理解出来ていません。


さて、ウィーナーは次に工学の発達について述べ、その次にデカルトからライプニッツにいたる精神と物質の関係の考え方の変遷をたどっています。そして19世紀の科学が生物をエネルギーを中心に研究していたことを批判し、これからは生物を情報の伝達と処理の観点から研究すべきことを述べています。私の力量ではこれらの話題の構造を明瞭に示すことは出来ませんが、出来るだけのことをしたいと思います。
まず工学の発達についてです。

懐中時計はポケット天球儀であり、天球と同じように動かされ、もしその中で摩擦やエネルギーの散逸があっても、それを克服して両針の動きができるだけ規則正しい周期性をもつようにつくられた。

クロノメーターの後には蒸気機関が登場した。ニューコメンの機関からほとんど現在にいたるまで、工学の中心分野は原動力の研究であった。

 17世紀と18世紀の初期が時計の時代であり、18世紀と19世紀が蒸気機関の時代であるとするならば、現代は通信と制御の時代である。電気工学は二つの分野に分けることができる。・・・・われわれはそれを電力工学と通信工学と呼ぶ。過去の時代と、今日われわれが活動している時代とを区別するものは電力工学と通信工学のちがいなのである。・・・・通信工学が電力工学とちがう点は、その中心問題がエネルギーの経済でなく、信号の正確な復元にあることである。

ニュートン時代の自動機械は、爪先でぎこちなく回転をする人形を上部につけた時計じかけの音楽箱であった。19世紀の自動機械は人間の筋肉内のグリコーゲンのかわりに燃料を燃やして動作する名誉ある熱機関であった。最後に現代の自動機械は、光電管でドアーを開き、あるいはレーダーの電波ビームがとらえた敵機の位置に大砲を向け、あるいは微分方程式の解を計算するのである。

ここまで工学の発達の跡をたどったウィーナーはいきなり哲学の問題に移ります。

 ギリシャや魔術時代の自動機械は・・・・重要な哲学思想に大きな影響を及ぼしたとも思えない。時計じかけの自動機械では全く事情がちがっている。われわれは無視しがちであるが、この考えは近代哲学の初期においてひじょうに本質的で重要な役割を果たしたのである。

それにしてもウィーナーの考察の対象の広範囲さには驚かされます。最初は天文学と気象学の対比。時間の非可逆性の問題。次に生物学や生物進化の問題。次に熱力学と統計力学。そして量子力学。17世紀からの工学の発展。通信工学。次にデカルトからライプニッツまでの哲学です。


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