「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(5)

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次の話題はデカルトからライプニッツまでの哲学です。私はデカルトを少々、ライプニッツをごく少々、読んでいて、デカルト哲学の基本問題については理解しているつもりでいましたが、ウィーナーが述べていることをよく理解出来ませんでした。
デカルトは精神と物質を峻別しましたが、そうすると物質から出来ている我々の身体の感覚がどうして我々の精神に届くのか、逆に我々の精神の働きである意思がどうして物質である我々の身体を動かすのか、説明が困難になってしまいます。ここがデカルト哲学のひとつの重要点であると私は理解しています。以下のウィーナーの文章もそこを問題にしているのだ、ということだけは私には分かります。

感覚と意志との両面において、人間の魂が、その物質的環境とどう結びつくかという・・・・重要な問題を、デカルトは不十分な形ではあったが論じている。・・・この関連の性質に関しては----それが物質に対する直接の作用や、精神に対する物質の直接の作用をあらわしているかどうかについては----彼はあまり明らかにしていない。

ここまでは私は理解できます。その次の文から理解があやしくなってきます。

多分彼は両方の意味の直接の作用を考えていたであろうが、外界に対して人間の経験が有効にはたらくことを、神のめぐみと正しさによるものとしている。


さらに、その次の記述になると私はもっと分からなくなります。

 このことに関して神にふりあてられた役割は、不安定なものである。神が完全に受動的であるとすると、デカルトが何を説明しようとしたのかよくわからないし、また神が積極的に関与するとすれば神の正しさによって与えられる保証というものは、神が感覚の作用に積極的に関与する以外に、何を意味するのかよくわからない。

ウィーナーさん、私はあなたの文章が「何を意味するのかよくわか」りませんよ。


私のぼやきはともかく、ウィーナーはこのあと、ゲーリンクス、マルブランシュとたどり、スピノザはこの学派の継承者で

精神と物質のあいだの対応は、神の二つの自己充足的な属性のあいだの対応であるとした。しかしスピノザは力学的に考える性質の人ではなかったので・・・

その課題はライプニッツが担ったと言います。ライプニッツについては、そのモナド論をウィーナーなりに解釈していますが、以下の言葉でライプニッツの哲学を要約しています。

われわれが観る世界の見かけの組織は、つくり話と奇蹟との間にあるものである。モナドは小さく画かれたニュートンの太陽系である。

たびたび申し訳ないのですが、この文章も私にはよく分かりません。
ただ、全体として見えてきたのは、こういうことです。ニュートンからライプニッツにいたる哲学者の生物に対する見方は、その時代、すなわち時計の時代に対応した見方であり、端的に言えば、生物を時計仕掛けの機械として見る見方であり、それはライプニッツにおいて最も完成された形で表れている、とたぶんウィーナーは言いたいのだと。


19世紀になると生物を機械として見る主力は哲学者から科学者に移ります。そしてその時代、つまり蒸気機関の時代に対応して、彼らが生物のモデルとして考える機械は一種の熱機関だったとウィーナーは指摘します。

 19世紀には人間のつくった自動機械と、自然の自動機械、すなわち唯物論者の見る動植物は、ひじょうに異なった面から研究された。エネルギーの保有と散逸がその時代の指導原理である。生物体は結局一種の熱機関であり、ぶどう糖・グリコーゲン・澱粉・脂肪・蛋白質を燃焼して二酸化炭素・水・尿素に変えるものである。


しかし19世紀のこのような見方も一面的な見方であるとウィーナーは論を進めます。

われわれの身体の複雑な神経系の、原子に相当するニューロンのような重要な要素が、真空管とまったく同じように循環によって外界から比較的僅少なエネルギーを供給されて働くこと、またそれらの機能を記載するのに最も本質的な帳簿は、エネルギーのそれではないということがわかりかけている。要するに、金属による自動機械にせよ、肉体による自動機械にせよ、そのような自動機械の新しい研究は通信工学に属するものであり、その基本的概念は、通報、妨害量もしくは雑音・・・情報量、符号化の技術などの概念である。

この記述は今日からすると少し古くさい感じがします。「通信工学に属するものであり」の代わりに「情報工学に属するものであり」とした方が今日ではぴったりきます。要点は、エネルギーから情報へ、観点が変わったことです。


以上の読解から私なりに第1章の論点を表にまとめてみました。

サイバネティクスは、19世紀の熱力学・統計力学に続く20世紀の力学(?)たらんとした、というのは私の妄想かもしれません。妄想かもしれませんが、このような見方は今回の私の収穫です。(ウィーナーは量子力学についても標準的なボルン解釈に異論があったようですので、情報理論の観点からの量子力学の再構成も考えていたかもしれません。それまでがサイバネティクスの構想に含まれていたとしたらそれは非常に大きなものになったでしょう。)
まあ、構想が大き過ぎて、モノになる前に空中分解してしまったのが、ウィーナーのサイバネティクスだと思っています。でも、空中分解したあとからさまざまな分野が成長したので、それは意義のある空中分解だったと思います。


「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(6)」に続きます。