ローマ人の物語 ハンニバル戦記[中]

ローマ勢力の撃破を狙うカルタゴハンニバル・バルカは、BC219年、ローマがカルタゴに宣戦布告するように巧みに誘導します。この時、彼は28歳。塩野七生の「ハンニバル戦記」[中]は、天才的戦術家ハンニバルのローマへの挑戦、19年も続く第2次ポエニ戦争を描きます。そして主戦場はイタリア半島です。ただ、第2次ポエニ戦争は[中]だけでは収まり切らなくて[下]の半分まで費やされています。
これについて何かを書こうとしたのですが、読み直してみると興味深いエピソード満載で、なかなかどれも無視しがたいです。


全体を読んで思うのは、ハンニバルは天才かもしれないが、カルタゴにはハンニバル「しか」いなかったんだな、ということです。ローマ側は将軍レベルの戦死者を何十人と出しながら、それでも(並であったかもしれないが)それに代わる人材が登場してきます。ローマはそのうちに、ハンニバルの率いていない軍を攻め、ハンニバルが登場したら戦線を引き上げる、という戦法に出ます。ハンニバルのいないカルタゴ軍には勝てたのです。このあたりナポレオンを思い出します。ナポレオンは自分が戦術の全てを指示したために部下の将軍が育たなかったということを聞いたことがあります。
そしてローマの将軍は、負けても責任感が強いし、ローマ市民の指揮官への信頼もまた強い、ということがさまざまな記述から浮かび上がります。

 ピアチェンツァまで逃げ帰った執政官コルネリウスは、重傷に苦しんではいても敵の戦力は正確に観察していた。カルタゴ軍の騎兵戦力が段ちがいに優れていることが判明した以上、平原地帯での宿営は極力避けるべきと考える。
(ティチーノの戦いで)

 敗戦の責任者は十字架刑に処して殺していまうのを慣例にしていたカルタゴ人とちがって、ローマ人は敗将を罰しないのを伝統としていた。これは、ルネサンス時代の政治思想家マキアヴェッリが賞賛を惜しまなかった点だが、その理由をマキアヴェッリは、後顧の憂いなく戦場での指揮に専念してもらうためであったと書いている。
(トレッピアの戦いで)

執政官フラミニウスも、指揮など不可能な状態で、一騎兵として奮戦し壮絶な戦死をとげた。
(トラジメーノの戦いで)

 ローマは、完敗の知らせを静かに受けとめていた。敗残兵をまとめ、彼らとともに首都に帰り着いた執政官ヴァッロを、元老院議員をはじめとする全市民が、城門まで出迎えて労をねぎらった。
(有名なカンネーの戦いで)

 メタウロの会戦の勝利にわくローマでは、人々の歓喜の中を凱旋式が挙行されたが、凱旋将軍として四頭立ての戦車を駆ったのは、執政官リヴィウスである。会戦が彼の担当戦線で行われたからだった。執政官ネロには、勝手な離脱の罪は問われなかったが、凱旋将軍の栄誉は許されなかった。彼は、右翼の指揮官として、四頭立ての戦車の後に騎馬で従った。しかし、ローマの市民たちは、どちらが真の凱旋将軍であるかを知っていた。ガイウス・クラウディウス・ネロには、それで充分であったのである。


この本の中ほどから若きスキピオが、陽性の指揮官にしてハンニバルの戦術上の弟子として登場し、徐々に戦局はローマ側に有利に傾きます。


この本の扱っている時代:BC219〜BC206