「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(6)
上位エントリ:サイバネティックス
先行エントリ:「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(5)
「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」も終りが近づいてきました。今までの記述を受けてウィーナーはこう述べます。
以上を要約してみると現代の自動機械の多くは、印象の受容と、動作の遂行とで外界と連絡している。これらは感覚器官・効果器・神経系に等価なものをもっており、相互間の情報の移動を全体的に統合している。それらは生理学の術語を使って記述するとぐあいのよいものである。これらが生理学と同じ機構をもった一つの理論に統一されるのは何ら奇蹟ではない。
では「一つの理論」とは何を指しているのでしょうか? たぶんウィーナーの頭にあったのは「第3章 時系列、情報および通信」で展開される通信の理論と「第4章 フィードバックと振動」で展開されるフィードバックの理論ではないかと思います。これらの理論は確かに機械にも生物にも原理的には適用出来るはずですが、生物に適用する場合には、様々な量の測定においていろいろ困難がありそうに私には思えます。
現在それほど明らかにされていないのは、感覚の自動機械の理論が統計的なものであるという点である。
通信工学に限れば「統計的」でしょう。しかし、それ以外の情報工学については私は必ずしも「統計的」な理論とは言えないと感じています。
したがってその理論は、古典的なニュートン力学よりも、ギブスの統計力学に属するものである。われわれは、通信の理論にあてる章でもっと詳細にこれを研究することにしよう。
上の「通信の理論にあてる章」というのは「第3章 時系列、情報および通信」のようです。私も後でこの章の読解を試みるつもりです。
この章の最後に位置する文章は、すでに「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(4)で紹介いたしました。
このように現代の自動機械は、生物体と同種のベルグソン(Bergson)の時間のなかにある。したがってベルグソンの考察のなかで、生物体の機能の本質的な様式が、この種の自動機械と同じではないとする理由はないのである。機械論でさえ、生気論の時間構造に符合するというところまで、生気論は勝利をおさめたのであるが、この勝利は既述のように完全な敗北であった。道徳あるいは宗教に少しでも関係のある立場からみれば、この新しい力学は古い力学と同じく完全に機械論的であるからである。われわれがこの新しい立場を物質論的と呼ぶべきかどうかはおよそ言葉の上での問題に過ぎない。物質の優位は現代以上に19世紀の物理学の一つの相を特徴づけており、“唯物論”は単に“機械論”とほとんど変わりない同義語となった。事実、機械論者−生気論者間の論争はすべて、問題の提出の仕方が拙なかったために生じたものであって、すでに忘却の淵に葬り去られたのである。
- おまけ
- ここでは私の空想を書き記します。前回(5)ではデカルトからライプニッツまでの哲学が登場しましたが、これらは薔薇十字団に関連のある人々です。そして話題になっているのは精神と物質の関係です。また、ウィーナーは序章の中でライプニッツのことを「サイバネティクスの守護聖人」と呼んでいます。また、ウィーナーは「神とゴーレム社」という本を書いています。内容はキリスト教の教義のいくつかについてサイバネティクスの立場から反論したものですが、ゴーレムというのは16世紀のプラハのユダヤ人街に関する伝説に出てくる、土で作られた人間のことです。この本を読むと彼がルネサンス魔術の知識を多少持っていたようにも読めます。そこで、私はどうしてもウィーナーを薔薇十字思想の後継者と見なしたくなるのです。
- 神とゴーレム社(God and Golem, Inc.):邦題は「科学と神」。原題のしゃれた名前が消えてしまっています。
- 作者: ノーバート・ウィーナー,鎮目恭夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1965
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「「サイバネティックス」という本の「第2章 群と統計力学」(1)」に続きます。