ぺてん師列伝 種村季弘

これは大好きな本です。ここに登場するペテン師たちの融通無碍なこと。
昔、この本を寝転がって読んでいたら、その本のタイトルを見た奥さんから「あなたにぴったりの本ね」と言われたことがありました。わたしにはまったく身に覚えはありませんが・・・・。
いろいろなペテン師が登場しますが、以下の3名が私の好みです。

  • ヴィルヘルム・フォイクト
    • 1906年のケペニック事件の首謀者。これは軍服を着た贋大尉による市庁舎からの現金強奪?事件。
    • これはこの本の「ケペニックの大尉」「制服の無頭人」「二人のヴィルヘルム」で詳述されています。
  • ハリー・ドメラ
    • 1926年、一人の青年が、(第一次世界大戦の敗戦で亡命した)ヴィルヘルム二世の孫、ヴィルヘルム・フォン・プロイセン王子になりすまして、連夜、大宴会に招かれていた事件。ちなみにテレビのないこの時代、ヴィルヘルム二世と、ヴィルヘルム皇太子の顔は新聞の写真などで人々に知られていたが、その孫になると顔は知られていなかったそうです。
    • この本の「贋のプロレタリア」「王子と乞食」「贋の王子」で述べられています。
  • イグナツ・シュトラスノフ

彼らに共通しているのは役者の精神です。イグナツ・シュトラスノフは自分の過去を回想してインタビュアーにこう話しています。彼は役者の一家に生まれ、若い頃は劇場にも出演していたのでした。

「精神も野心もある一人の若者が、夜の数時間だけ舞台の板に立つことでどれほど満足させられましょうか。私は満足しなかった。舞台で大公や領主や男爵の役を演じる。すると観衆は恍惚として、何という天才的な俳優だ、とこうきます。どうしてもう一歩現実生活のなかに出ていって、舞台の上にしか存在しないと称するところのことどもを大真面目に演じないのでしょう」


「ぺてん師列伝」の「ブダペスト赤と黒」より

こうして彼は劇場の外で芝居をするようになる。すると人々はこう思ってしまうのです。

何しろこの男は芝居に出てくる男爵そっくりにいかにも男爵らしい科白を喋り、男爵らしい物腰を完璧にこなしているのだから、これが男爵でなければどこに真物の男爵がいるだろうか。では当地の男爵領に住む実在のS男爵はどうか。あんなものは「不完全な」男爵にすぎぬ。


「ぺてん師列伝」の「ブダペスト赤と黒」より


どの話もとてもおもしろいのですが、私はこれをうまく要約して語ることが出来ません。おもしろさは細部に存在し、その細部は数多くあるのですが、それ(特に時代背景)を語れば長くなり、要約すればおもしろさは消えてしまいます。それでも少しやってみましょう。

 1906年10月16日午後1時すこし前のことである。ベルリンのプトリッツシュトラーセ駅の方からやってきた一人の制服の大尉が、プレッツェン湖水泳プール訓練場所属の哨兵小隊の一行を呼びとめた。下士官が一人、兵隊三人の小隊編成である。
「とまれッ」
 型通り下士官が挙手の姿勢をとり、どこから来てどこへ行くかを報告する。報告が終ると大尉が命令を下した。
下士官は兵舎へ向え。歩兵はこれより本官の指揮下に入る」


「ぺてん師列伝」の「ケペニックの大尉」より

食事が終ると大尉は一行を整列させて銃に装剣を命じた。
「われわれはこれより重要任務においてケベニック市庁舎に特別出動する。これは遊びではない。真物の任務である。命令違反は許されない。捧げ銃(ツツ)ウ」
・・・・・・
「あなたがケベニックの市長ですね」
「はい」
「皇帝陛下の命によりあなたを逮捕します。身柄はこれより即刻ベルリンへ移送します。ご用意を」
「何かの間違いでしょう。どういうわけです。理由を説明して下さい」
「私は知らない。私は命令を執行しているだけだ」
「逮捕状は」
「部下をご覧下さい」、大尉は装剣した兵士たちを顎でさした、「資格証明はこれで充分ではありませんか」
・・・・・・
やがてケベニック市長を乗せた二台の護送車が街頭の下に現われ、ノイエ・ヴァッヘ(新哨所)への衛兵門にゆっくりと吸い込まれていった。それを見届けると大尉はプトリッツシュトラーセ駅に戻って物品一時預り所のロッカーからひとかかえの包みを取り出し、包みとともに有料便所に消えた。しばらくして便所からは一人の男が出てきたが、彼はもう大尉の制服を着てはいなかった。しおたれた上着によれよれのズボン、ボロ靴をはいた、ありふれた失業者のいで立ちである。・・・・・・
 一方、ノイエ・ヴァッヘに送り込まれた市長一行はもう一度面喰らった。当番将校はそのような連絡は受けていないというのである。電話連絡が八方に飛んだが誰も心当たりはない。・・・・・・警視総監に連絡が飛んだ。総監にも心当たりはなかった。もう一度宮殿に問合せが行った。皇子の一人が出て、父(ヴィルヘルム二世皇帝)と話したが、父は市長や会計係を逮捕して金庫を差し押さえる命令など出した憶えは毛頭ない、と語った。それから続けて、「こんなことはドイツの歴史上でも前代未聞だ!」そう叫ぶと、皇子は腹の皮がよじれるほど笑いに笑った。
 つまりケベニックの大尉こと「フォン・アロエザム近衛大尉」なる人物はこの世に存在しないのであり、したがって彼の発した市金庫差し押さえ命令もドイツ第二帝政のいかなる機関からも発令されていなかったのである。下士官と兵士は真物だった。大尉の制服も真物だった。しかしそれを着ている中身は帝国陸軍にいかなる関係もない人物であった。それでケベニック市庁舎襲撃という現実の事件が成立した。フォン・アロエザムという人間がではなくて(そんな人間はどこにもいなかったのだから)制服がすべてを動かしたのである。・・・・・
・・・・・誰もがまず大笑いした。腹を抱えて笑いころげた。・・・・ヴィルヘルム二世皇帝がその一人だった。彼は大笑いをして言った。
「これが規律というものだ。何びともこの点でわが国の真似ができる者はおるまい! これこそが制服の力だ」


「ぺてん師列伝」の「ケペニックの大尉」より

この奇妙な事件はその後二転三転して思いがけない側面を次第に現していくのですが、それについては実際に本をお読み下さい。