情報時代の見えないヒーロー【ノーバート・ウィーナー伝】(つづき)

情報時代の見えないヒーロー【ノーバート・ウィーナー伝】」で

著者によれば、この男こそ今ではあまり有名ではないが情報時代を切り開いた第一級の人物なのでした。

と書きましたが、その理由を書いていませんでした。ここに、本からの引用を使って、彼がどんな点でヒーローだったのかお伝えしたいと思います。


まず、1920年代の無線、ラジオ、電話の時代に、回路設計のための理論を作ったということです。

その初期の数学の研究によって、何十年も前から技術者が手こずっていた電子工学理論の実践的な問題が解決した。


コンピュータの建設には1920年代から取り組んでいたそうです。(その時、すでにヴァネヴァー・ブッシュとコンビを組んでいました。)

1920年代には、最初の現代的計算機の設計に取り組み・・・・


しかし、当時は技術が進歩していなかったので実現出来ず、この計画はお蔵入りになります。それから1940年になって基本設計をメモに記してヴァネヴァー・ブッシュに送りますが、彼はそれの価値が分からず、メモを自分の手許に留めたままにしていました。

フォン・ノイマンが記述したEDVACは、ウィーナーがその五年前*1にヴァニヴァー・ブッシュに提出した予見的な案五つをすべて組み合わせている。つまり、デジタル動作、全電子式真空管計算素子、二進法、記録が容易で消去可能なメモリ、論理命令と計算命令の、全自動内蔵プログラムである。
・・・・・・・
実際、元海軍研究極のD・K・フェリーと、アリゾナ州立大学の電気・計算機工学科長のR・E・セイクスという二人の専門的審査員が結論するように、

  • フォン・ノイマン型機械の、内蔵プログラム以外のほとんどの要素は、[ウィーナーの]覚書に出ている。すると、フォン・ノイマンとウィーナーが、どれだけ相手の影響を受けたかということに関心が生じる・・・・・二人がどれだけ、互いが互いの肥やしになったかは推定しがたい。それでも、ブッシュがウィーナーの覚書を回覧していたら、今日、フォン・ノイマン型とは言われておらず、ウィーナー型とは言わなくても、ウィーナー=フォン・ノイマン型と言われていたかもしれない。


情報理論の開祖、クロード・シャノンにもインスピレーションを与えていました。

「ウィーナーと一緒のとき、シャノンは二週間に一度はやってきて、一時間か二時間、ウィーナーと話していました」と、ビゲローは回想する。「ウィーナーはシャノンと実に気前のいい態度で意見を交換していました。ウィーナーは情報理論がどういうものになるか、すべて見通していましたし、そのアイデアや感想や提案を、シャノンに向かって吐き出していましたから」。

 シャノンは、自分の新しい数学理論の中心的なアイデアのいくつかをウィーナーによるものとした。ウィーナーの戦時中の成果を挙げ、明瞭に「コミュニケーション理論は、その基本的哲学と理論の多くについて、ウィーナーに負うところが大きい」と述べた。


電子義手の研究にも中心的な役割をはたしています。彼のアイディアは、彼自身の信条(広島、長崎にショックを受けて、以後、軍事に関わる研究を全て拒否し、他の科学者にもそれを勧めた)が災いして、最初、母国アメリカでは注目されませんでした。それはかえってソ連で研究されました。冷戦のころです。

1961年9月、ソ連から帰って1年後、7号棟の廊下を歩いているとき、ウィーナーは階段で足を踏みはずし、腰の骨を折って、川向こうのマサチューセッツ総合病院へ運び込まれた。医者は、自分たちが囲む診療台にウィーナーが送り届けられたとき、自分たちの幸運が信じられなかった。この病院のいちばんの整形外科の医師団は、モスクワへ行って、ソ連のバイオサイバネティックスの最初の勝利が姿を見せるのを目撃して戻ってきたばかりだった。すなわち、電子工学で動き、センサーとサーボモーターなどのサイバネティックス装置で正確に制御される義手である。アメリカ人は、その実演をすごいと思い、ある医師が伝えるところでは、ソ連の人々が、「ごらんください。皆さんはこれを知っているにちがいありません。私たちはこのアイディアをすべてウィーナーから得たのですから」と言ったという。


遅ればせながら、アメリカでも電子義手の研究が始まります。

ウィーナーは、信頼する博士号取得研究員と、新しいチームメイトが病床の周りに集まると、最初のサイバネティックスによる腕の詳細な設計を説明した。ウィーナーが考えたこの装置では、義手が装着者にストラップと電気的なセンサーで装着され、制御信号が、腕の切断箇所よりも上の部分で発火する神経から皮膚を通じて採取されることになる。機械部分も電子装置も、生物工学的に----装着者の指向だけで----制御され、フィードバックの訓練によって、徐々に精巧になる。


このような成果を挙げながらも、彼の功績は一般からは忘れ去られてしまいます。その理由については本書が詳しく記していますが、ひとつは彼自身の気難しさによるものであり、2番目には冷戦時代において共産主義シンパと思われたこと、というのが主な理由だと私は理解しました。

*1:1940年