妄言

ウィーナーのサイバネティックスの第2章を読解していたら、いくつかおもしろいテーマが私の中に生まれました。どれも重そうで、これらをたどっていくとまた、どこか別の世界に行きそうです。


ここでは1について若干、ご紹介します。

お邪魔します。
私が講義を受講していたら、情報の定義についていろいろ質問をします。
ウィーナーやノイマンやシャノンによって与えられた情報量の定義は、可能な組合せの中からある特定の組合せの集合の確率の対数のマイナスとして定義されるわけですが、その特定の集合というのは人間にとって(あるいは機械にとって)「意味のあると判断される」集合であるわけです。
 私は情報量の定義は結局、人間の価値判断に依存している、と思えるのです。DNAが情報を担っているとしても、それはあくまでも人間からみた観点であると思うのです。人間が生命を、価値あるものとみなす限りにおいて測定され得る情報量であると思うのです。
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    • 今、読み返してみると文章が整っていないなあ。
  • 一番言いたかったことは、人間の価値判断がなければ情報なぞ存在しないんじゃないか。三上さんがそこでやろうとしていた宇宙開闢から情報のあり方を語るのは空想ではないか、ということでした。
  • それから、DNA云々を言っているのは「情報文化論2007 第2回 生命と情報」で

1DNA

人間のDNA=ヒトゲノムは約30億文字の膨大な情報量からなる。

ヒトゲノム計画(1990-2004)で2万数千の遺伝子が特定された。

ミトコンドリア・イブの発見

   遺伝的起源(最初の人類)の研究(統計遺伝学+分子人類学)
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  • と書かれてあったのに対して、「DNAに情報がこめられていると言ったって、それは一定の価値判断を持つ人間が見るから、そう見えるだけじゃないの?」ということを言いたかったのです。
  • ですが、今回宗旨替えをしました。1948年にウィーナーが言いたかったのは
    • 生命の神秘を解明するキー(の少なくとも1つ)は「情報」という概念だ
  • ということではないか、と思い至ったのです。
  • シャノン流の情報量の定義は、意味論を無視しています。
    • 私はそのことを非難しているのではありません。シャノンが情報の意味を無視して確率論だけで情報を定量化したことによって、工学が、そして世の中がぐぐっと進歩したのですから、これは卓見です。
    • シャノン流の情報量においては、確率1ならば、すでに結果が分かっているので、別に情報伝達する必要がないと考えます。つまり情報量は0です。これとは違って確率1/2の出来事、たとえばコインを投げて表か裏か、のような出来事、の結果を知るのは情報を得たことになります。(これが1ビットです。)
  • しかし、実際には意味をどこかに付与しないと、情報と雑音の区別がつかなくなります。では、意味とは何か? ウィーナーに触発されて考えたのは、(漠然とした言い方ですが)生命の維持や発展に役立つ情報が意味のある情報なのではないか、ということです。低い階層では、その生物の生存を維持するような情報が意味のある情報です。あるいは個体としての生存を維持しないが、種としての存続に役立つような情報があるかもしれません。人類ならば、もっと高尚な何かがあるかもしれません。
    • たとえば、おなかがすいている時にライオンが、獲物を見つけたとします。まあ、それは水牛かもしれません。その水牛の姿がライオンの目を通してその脳に伝えられると、これは情報です。今度はそこに(なぜか知らないが)新聞があったします。ライオンがその新聞を見たとしてもその画像はライオンにとっては情報ではないでしょう。
  • なんだか、うまく説明出来ていません。言いたいことは・・・・う〜〜ん・・・・人間に限らなくても情報は存在するのだ、と。つまり、生命の維持や発展に役立つかどうかという観点を入れると生命界全体において、情報というものが立ち現れてくる、と。
    • あー、でも、こうやって書いているのがまどろっこしい。もっと、いろいろなことを思いついたんですが。私の書く技量が足りないのですね。