お金か、ビジョンか

こんな状況(暗くなるのでもう具体的に言いたくないのだが4月21日に書いたような状況)になってふと思い出したのは、ゴールドラットの「ザ・ゴール」

の一節

「メーカーの目標(ゴール)は、お金を儲けることです」私はきっぱりと言った。「それ以外のすべては、その目標を達成するための手段です」
ジョナは笑っていない。
「よくできた、アレックス。よくやった」彼は、静かにいった。

だ。


拝金主義か、と反発される向きもあろうかと思うが、今の状況になると、この言葉の重みがよく分かる。お金が動かなくなると、会社という組織は途端に崩れ始める。上の一節は、ジョナに会社の目標とは何か、を問われて、ずっと考えた末に出したアレックスの答だ。問いのほうの場面はこんなふうだ。

「君に言いたいのは、生産性なんてものは目標がはっきりわかっていなければ、まったく意味を持たないっていうことだ」
ジョナはチケットを受け取り、搭乗ゲートに向かって歩き始めた。
「わかりました。それじゃ、こういう考え方はどうですか。我が社の目標の一つは効率を上げること。だから効率を上げることができれば、生産的であると。論理的では」
ジョナは足を止めた。そして振り返って私を見た。
「君は自分の問題が、何だかわかっているかね」
「ええ、効率を上げることです」
「いや、違う。そんなのは問題ではない。君の問題は、目標が何なのかよくわかっていないことだ。それから、どんな会社であっても目標は同じだ。一つしかない」

ジョナにこういう宿題を出されたアレックスは、会社の目標についていろいろ考える。

  • 材料を安く仕入れること?
  • 人々に仕事を与えること?
  • 製品を作ること?
  • 品質?
  • 品質と効率の両方?
  • 技術?
  • マーケット・シェア?

と、考えていって最後に彼は、目標は金儲けじゃあ、という結論に達した。だが、私は書いていて、それでいいのか? 何もビジョンのない金儲けは虚しくないか? とも思ってしまう。


うまく考えがまとまらないが、人々を組織して何か事業を行うことが出来るのは金を支払うことが出来ればこそだと実感する。個々人はそれぞれビジョンを持っているだろう。しかし、お金というものは便利なもので、その個々人の多様なビジョンを実現するための共通の中間目標になり得る。もちろん企業としてもビジョンを持ってよいし持つべきであるだろうが、お金を稼げなければ、それは絵に描いたもちではないか? こう書くと反発する人もいるだろう。


今のところの私の結論。

  • ビジョンがお金より上。しかしビジョン実現のためにはお金がいる。ビジョンを達成するためには他人の協力が必要。他人は社員とは限らない。たとえば材料を納入する業者は別にそのビジョンに共鳴して納入しているわけではない。お金を支払ってもらえるから納入する。その材料を運ぶ運搬業者だってそうだ。ビジョンを共有しない人々の協力を得るためにはお金が必要。よってお金を切らしてはいけない。

こんな言葉も思い出した。

何をもってか人を聚(あつ)むる。曰く財。


易経」の「繋辞下伝」より