----愛、この一立方メートルの蝶の群よ

いまだに私の本棚にある。

この本(日本語訳)が出版されたのはシュルレアリスム宣言の50周年記念ということで1974年だった。その年にこの本を買った、ということは私は14歳だったのか! 当時の私は宣言にもだが、併録された「溶ける魚」に出てくるいくつかのフレーズに夢中だった。タイトルは溶ける魚の30に登場するフレーズ。


 あたりは上下一面、雀蜂の大群が二等辺三角の形に飛び交っていた。夕暮れのきれいなオーロラは、その眼をはるか私の眼の彼方の空に向け、ふりかえろうともせずに私の先を歩いた。こんなふうにして、船と船とは、銀色の嵐のなかに横たわるのだ。
 いくつものこだまが、地の上でこたえあう。一本の紐の結び目のような雨のこだま、砂にまじるソーダのような太陽のこだま。いま響いているのは涙のこだま、読むことのできないアヴァンチュールと、手足の欠けた夢とにふさわしい美しさのこだま。私たちは目的地に着いたのだった。道すがら、聖ドゥニになりおおせることを思い立った幽霊は、一つ一つの薔薇のなかに、自分の切られた首が見えると言い張っていた。ガラス窓や手摺に口を寄せた吃る声、ひんやりとした口ごもりが、私たちの慎みのない接吻にまじりあうのだった。


溶ける魚 1

今、読むと中学生だった当時の自分を思い出す。こういうものを用いて当時の私は自分の周りに垣根を張り巡らしていた。思春期の不安定さがあった。マックス・エルンスト百頭女の発売のことを新聞の広告で知ると、その宣伝文句と若干のコラージュが私の中に奇妙な空想を誘発するのだった。鳥の羽ばたきが執拗に付きまとう空想だった。それからは、素敵な女性を見ると、途端に鳥の羽ばたきが私を苦しめるのだった。




今回、読み直してみて、いくつかのフレーズが今も魅力を失っていないことを再認した。

 私はいま、宮殿の回廊にいるのだ、あたりは寝しずまっている。緑青、そして錆、これはほんとにセイレネスの歌声なのか?


溶ける魚 7の最終

「これはほんとにセイレネスの歌声なのか?」 夜の宮殿の廊下にある金属で出来た浮き彫りの緑青が突然、セイレネス(セイレーン、シレーヌ。美しい声で舟を引き寄せて難破させる海の魔女)に変身する姿が見える。

「君は誰?
----首都のはずれで身をふるわせている、あの瀕死の竪琴の痛みのひとつよ。ご迷惑になるかもしれないけど、我慢してね。」


溶ける魚 26

これはアニマが語る言葉。後年のナジャの登場の場面を思わせる。


・・・・私はもう一度、溶ける魚の中に予兆を読み取ろうとしているのだろうか。