人間の人間的な利用

この本も(「も」というのは「神とゴーレム(株)」ということですが)邦題に変なタイトルをつけられてしまい、原題の含蓄を失う結果になっています。邦題からは単に人間を機械と見なす考え方だけを予想してしまいますが、ウィーナーは単純に人間を機械として見ようとするだけではなく、そのような思考を押し進めていった際にどのような困難が待ち受けるかを感受するだけの感性を持っていました。彼の科学探究心と実存的思索がバランスをとった地点に、この「人間の人間的な利用」というタイトルがあるような気がします。


この本はウィーナーの出世作である1948年の(ウィーナー54歳。遅まきのデビューです)「サイバネティックス」によって世間に巻き起こった「サイバネティックスの核心をなす根本思想を数式をまじえずに平明に解説して欲しい」という要望に応えたもので、第1版は1950年の発行です。邦訳されたのは第2版で、これは1954年の発行です。この1954年という年がどんな年かと言いますと、朝鮮戦争が終わったのが一年前の1953年で、次の年の1954年も冷戦の真っただ中の時代でした。


まだ1950年とか54年には目新しかった「情報」という概念を伝えることがこの本の主題のひとつです。それらの多くは今では常識になってしまいましたが、それでも中にははっとするものもあります。そのひとつは「情報は商品としては不適である」という主張です。

一つのものをよい商品にするのは何であろうか。それは、本質的には、そのものが価値を保持しながら手から手に渡ることができることと、その商品が、その代価になる貨幣と同じように加算できる数量をもつことである。・・・・・
 これに反し、情報はそう容易に保存されることができない。なぜなら、すでに述べたように、伝えられる情報の量は、エントロピーという非加算的な量と関係があり、しかもエントロピーとは符号と数値係数が異なるだけである。閉じたシステムの中ではエントロピーは自発的に増大する傾向があるのに対し、情報は自発的に減少する傾向がある。また、エントロピーは無秩序さの程度を表わすのに対し、情報量は秩序性の程度を表わす。情報とエントロピーは保存されないので、どちらも商品とするに適さない。


冷戦下という環境によるのか、この思索は国防のための科学上の機密についての批判につながっていきます。

・・・・・人々は、国家の軍事的および科学的知識を静止的な図書館や研究所に貯蔵することが可能だと思いこんでいるが、これは前大戦の兵器を兵器庫に貯蔵して置くことができると考えるのと同類である。そればかりでなく、人々は自分の国の研究所で生み出された情報は道徳的にその国の所有物だとさえ考えており、したがってこの情報を他国人が使うことは反逆の現われであるばかりでなく、本質的に窃盗に類するものとえ思っている。このような人には、所有者なしの情報というものは思いもよらないのである。
 変化してゆく世界で、情報というものを価値の圧倒的な低落なしに貯蔵しておくことができるという考えは間違っている。

ここで「所有者なしの情報というものは思いもよらないのである。」と書かれているのが私には気になります。逆に言えばウィーナーは情報とは本来、所有できないものだ、あるいは、所有すべきものではない、と考えていたようにも読めます。

情報というものは貯蔵よりも利用が大切なものである。最大の安全保障を持っている国とは、その国の情報面および科学面の状況がそれに課される可能性のある諸要求に適切に対処できるような状態にある国のことであり、そのような国では、情報はわれわれが外界を観察し外界に対し効果的に行動してゆく連続的作業の一つの段階をなすものとして重要なものであることが十分認識されていなければならない。・・・・・・
 繰り返すが、生きているということは、外界からの影響と外界に対する働きかけとの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中でわれわれは過渡的段階にあるにすぎない。いわば世界の有為転変に対して生きているということは、知識とその自由な交換の絶えざる発展の中に参加していることを意味する。

「知識とその自由な交換」というところに、オープンアクセスを支持するような考え方があるように私には読めました。