古代史の真相

たまにはこっちのジャンルも書いておいたほうがよいと思って・・・・。最近は待ち行列ネットワークの話ばかりで単調になっていますから。

著者は考古学者ではなく作家の方です。
目次は

  1. 古代統一国家はいかにして形成されたか
  2. 葛城氏の興隆と衰亡
  3. 謎の巨大豪族「物部氏」の正体
  4. 藤ノ木古墳の被葬者は誰か
  5. 古代史の巨大な謎・継体大王
  6. 古代出雲の実像に迫る
  7. 聖徳太子の謎
  8. 藤原政権を作り上げた男

となっています。私は1、2、3、5を興味深く感じました。
1には

それは天皇という尊称の使い方です。「天皇」が使われだしたのは早くて推古朝(在位592〜628)、天武朝(673〜686)、それに続く持統朝というのが大方の学界の意見です。私自身は、天武朝以降だと思います。だから天武以前の、例えば仁徳天皇応神天皇というふうに、「日本書紀」や「古事記」の記述に即して使うと非常に誤解を招きやすい。・・・・したがって、「日本書紀」の引用以外は天武以前の「天皇」についてはその尊称を使いません。これは私の鉄則です。

と書かれていますが、こういうふうに明言しているところに安心感を持ちます。そうでありながら著者は日本書紀古事記の記述を最初から否定するような立場をとっていません。そこに著者のバランス感覚を感じます。私が類書を見てすぐ読む気が失せてしまうのは、このバランスが崩れていると感じた場合です。もっとも、私の感じるバランスが当を得たものであるかどうかはまた別問題ですが。
2では、あまりに古すぎて取り上げることの少ない葛城氏を取り上げて、大王家に匹敵する勢力であったと論じています。3での、物部氏が実は海外(朝鮮半島)にも深く関わっていたという指摘は、ともすれば物部氏を排仏派のイメージから保守的に考えてしまう私にはハッとさせられるものでした。5では、

 私は応神・仁徳王朝は大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)大王、つまり雄略をもって断絶したと考えています。允恭の第5皇子とされる雄略は、専制君主たらんとして奔走、中央集権化に努めたがその雄図は挫折しました。
 なぜならあまりにも後継者を殺しすぎた。・・・・
 「日本書紀」では、雄略のあと清寧、顕宗、仁賢、武烈と、継体が王位につくまでに四代続いたことになっていますが・・・・
 こういう王たちが実際にいたのかどうか。仮に清寧から武烈までの四代がいたとしても、大王としての権威のない、稀薄な存在の大王だったと思う。
 雄略の死後、王権の空白期があり、その空白に乗じて大和入りしたのが継体でしょう。

というこの時代についての解釈は説得力のあるものだと思います。