ローマは1日にして滅びず(3)

紀元476年 ゴート族のドナウ渡河から98年

西ローマ帝国の滅亡

 475年、当時東方で認められた数少い西方の皇帝の一人ユリウス・ネポスは、1年余の短い支配ののち、軍司令官(マギステル・ミリトゥム)でパトリキウスの爵位をもった実力者オレステースの革命で、ダルマツィアにおわれた。そのオレステースが西方の皇帝に据えたのが、年若い息子、ロムルス・アウグストゥルスであった。その頃ゲルマン人傭兵隊から成るイタリアのローマ軍はラヴェンナ政府の財政不如意で給料を手にしなかったが、かれらはオドワケルを頭領にかついで、あらゆる所有地の3分の1を割当てられるよう要求し、オレステースにより拒否されるや、かれに叛旗をひるがえし、かれが籠城するパヴィアをおとしいれて、ついにかれを殺害するとともに、その子のロムルス・アウグストゥルスを廃位した(476)。オドワケルはイタリアの事実上の支配者となった。


渡辺金一著「中世ローマ帝国」より


476年、西ローマ帝国は滅びます。最後の皇帝は少年のロムルス・アウグストゥルスでした。ここに至るまでに、都市ローマはフン族の接近を経験し(なぜかあと少しのところでフン族は引き返していったのですが)、その後、ゲルマン民族の一派ヴァンダル族によってもう一度、略奪を受けました。皇帝は次々に擁立され、そして次々に殺されていきました。今度こそローマ帝国は滅びたのでしょうか?



それでもローマは滅びない。まだ東ローマ帝国がありました。けっして健全というわけではありませんが、徐々にかつての力を取り戻しつつありました。オドワケルもその力を無視できません。彼はこの年わざわざコンスタンチノープルの(東ローマの)宮廷に使節を派遣して、皇帝のしるしである紫衣と冠を返還し、自分にパトリキウスという爵位と筆頭軍司令官の地位を与えるように懇願しています。つまり、法的には西ローマは滅んだのではなくて東ローマに吸収されたのでした。


当時の東ローマ皇帝ゼノンはこの要求に対してぬらりくらりとかわします。その一方で自分の帝国に抱えていた東ゴート族の王テオドリックと交渉に入り、テオドリックオドアケルを倒したならばイタリアの支配を許すことを約しました。それからいろいろあったのですが最終的にはテオドリックオドアケルを倒し、イタリアに建国することになります。しかし、それは東ローマの(もう西ローマはないのだから単に「ローマの」と言うべきか)衛星国としての存在でした。その証拠にコンスタンチノープルの宮廷は(その頃はゼノンではなくアナスタシオスが皇帝でしたが)テオドリックにローマ宮廷の大礼服一式を下賜しています。そして東ローマ帝国はゴート族がいなくなった分、帝国内が安定したのでした。このあたりの事情を上に挙げた「中世ローマ帝国」という本では、以下のように叙述しています。

つまりテオドリッヒ*1は、もともと自分が有していたゴート王としての資格だけでは満足せず、コンスタンティノープルの皇帝がイタリアの支配者にさずける、ローマ帝国の国制上の王という御墨付のポストを、年来の宿願かなって、いまようやく手に入れたのである。それが意味するのは、ローマ帝国のきずなからの脱離であるどころか、反対にそれへの取込みであり、しかもそのさい注目すべきは、ゴート王自らがすすんでそれを望んだという点である。

ローマ帝国しぶとし。

*1:私は別の本の記述に従って「テオドリック」と記述しています。どちらがよりふさわしいのか私には判断出来ませんが・・・・・。