ローマは1日にして滅びず(5)

紀元678年  ゴート族のドナウ渡河から300年

イスラムコンスタンティノープル包囲

5年前から毎年、帝都コンスタンティノープルがアラブ海軍に包囲される事態になりました。ここにいたるまで何があったのでしょうか? 日の出の勢いのアラブ人たちは元々砂漠の民でしたが、地中海に達するや急遽、海軍を編成します。かつてローマ人たちがラテン語でマーレ・ノストロム(我らの海)と呼んでいた地中海は、もはや我らだけの海ではなくなりました。655年、時のローマ皇帝コンスタンス2世は、この状況を打開するために自ら海軍を率いて、生まれたばかりのアラブ海軍に挑戦します。しかし結果は惨敗。戦いの帰趨を悟ったコンスタンス2世はひとりの水夫と衣服を交換して戦場から逃げ帰ります。衣服を交換された水夫はアラブ人に切り殺されたといいます。(井上浩一著「生き残った帝国ビザンティン」より) コンスタンス2世は西の南イタリアシチリア島で、軍の再編に取り掛かりますが、自分の配下の者によって暗殺されます。あとを継いだのが長男のコンスタンティノス4世ですが、イスラム(アラブ)に対する劣勢は挽回できず、毎年、アラブ海軍が帝都コンスタンティノープルを包囲する、という事態に陥ったのでした。

記録に乏しいこの時代にあって、ほぼ唯一といってよい史料の『テオファネス年代記』も、この数年については各年一行だけしか記していない。帝国は瀕死の状態にあったといってよい。


井上浩一著「生き残った帝国ビザンティン」より


それでもローマは滅びない。包囲は678年で終りになります。上記の「生き残った帝国ビザンティン」によれば、その原因は「ギリシアの火」という薬物による新兵器だそうです。それは船に取り付けられた筒から勢いよく発射される液体で、それが空中を飛ぶ際に燃焼するという物でした。いわば火炎放射器のような兵器です。新たに加わったこの新兵器によって、ローマ帝国はからくも滅亡を避け得たのでした。

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とはいえかつての世界帝国は見る影もありません。現在のトルコのところにまとまった領土があるほかは、ギリシャ・イタリアの沿岸部にちょろちょろと領土があるだけです。