ローマは1日にして滅びず(6)
紀元1025年 ゴート族のドナウ渡河から647年
バシレイオス2世による復興
一瞬にしてシリア、エジプトの両属州を失った帝国は、以後、攻め寄せるアラブ軍との熾烈な国土防衛戦争に忙殺され、そのなかから、小アジアとバルカン半島を国土の中核とする集権的な軍事国家に変貌していく。・・・・・・
・・・・・10世紀以降、国力を回復させ、対外攻勢に転じたビザンツは、東方ではアラブ人からキリキア、北シリアを奪い返し、バルカンでは強敵のブルガリア王国を攻め滅ぼしてその版図は7世紀以来最大に達し、11世紀前半には、再び地中海に覇を唱える大国の地位に立ち上ったかのようにすら見えた。
根津由喜夫著「ビザンツ 幻影の世界帝国」より
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ユスティニアヌス1世の峰が最初の高峰だとすれば、その後7世紀の半ばから8世紀はじめにかけての鞍部をこえた縦走路は、次第に高度をあげつつ、バシレイオス2世に至ってビザンティン山脈の最高峰に達する。彼が死んだ年、1025年は帝国が繁栄の頂点に達したといってよい。
東はアルメニア・シリアから西は南イタリアまで、北はドナウ河から南は地中海の島々まで、大きく広がった国境はどこも平和で安定していた。いずれの国境にも帝国を脅かすような敵は見当たらなかった。
井上浩一著「生き残った帝国ビザンティン」より
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になったわけです。ローマは滅びそうで滅ばない。それどころか再び地中海周辺の強国に戻ったのです。
ところで上の引用でビザンツとかビザンティンと言っているのはローマ帝国のことです。ご存知の方も多いと思いますが、現代ではこの頃のローマ帝国をビザンツ帝国とかビザンティン帝国と呼んでいます。それはこの帝国の首都コンスタンティノープルの昔の名前、ビザンティオンに由来してます。それはともかくとして、この帝国の住民は誰も自分たちの国のことをビザンツとかビザンティンとか言いませんでした。あくまでも国号はローマ帝国でした。