ローマは1日にして滅びず(7)

紀元1071年 ゴート族のドナウ渡河から693年

マンツィケルトの大敗北

紀元378年のゴート族ドナウ渡河からずっとローマ帝国の滅亡をここまで引っ張ってきたので、これを読まれている方はもうすでに、ローマはそう簡単に滅びない、と予想されていることでしょう。その通りです。ローマはまだ滅びません。
今回は、ローマ帝国の2つの時代の領域を示します。


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まず、目に付くのは今のトルコの領域がほとんど無くなっていることです。これは東からやっていたセルジューク・トルコによる侵攻によるものです。この侵攻に立ち向かったのが、その頃続いた何人かの無気力なローマ皇帝とは異なって、優秀な将軍でもあった皇帝ロマノス4世です。彼は1068年の即位後、何度かセルジューク・トルコに対して反撃し、一定の成果を納めました。その成果に基づき1071年には大々的な遠征軍を組織してトルコ問題に決着をつけようとしました。相手のトルコは、皇帝みずから率いる大軍の接近を聞いて、和平の使者をロマノスの下に送りました。しかし自信に満ちた皇帝ロマノスはその和平提案を蹴ります。


8月19日、現在のトルコのマンツィケルトで両軍は激突。意外にもローマ軍は大敗を喫します。しかもあろうことかロマノス4世はトルコ軍の捕虜になってしまいます。ローマ軍は30万人の大軍でした。しかし、ローマ軍内で裏切りが起こったのです。

マンツィケルトの戦いに参加したビザンティン*1軍の主力は、外国人傭兵を除けば、このような貴族の軍隊であった。貴族のなかには、もともとは同じ貴族仲間であるにもかかわらず、皇帝として自分たちを「奴隷」視するロマノス4世に、好意をもたない者が多かった。・・・・・・
 戦いが始まるや、貴族のひとりは自分の率いていた軍を独断で退却させた。同時に「戦いは破れた。皇帝は戦死した」というデマを流した。


井上浩一著「生き残った帝国ビザンティン」より


このあと、勢いにのったトルコ軍は10年の間に今のトルコ領をほぼ自分の物にしたのでした。



それにしても、このロマノス4世という人物は可哀相な人物です。元々は皇帝の家柄に生まれたわけではありませんでした。有能な将軍でしたが讒言に会い島流しにされます。やがて釈放されるのですが、それは、ちょうど皇帝コンスタンティノス10世が没した時でした。皇妃のエウドキアが一時、皇帝の位に着きます。しかし周囲はトルコに対抗できる強力な人物を皇帝にと考えており、また、エウドキア自身がロマノスを気に入ったこともあり、2人は結婚し、ロマノスが皇帝に即位したのでした。


ところがこのマンツィケルトの大敗が起きます。ローマ皇帝が捕虜になったなどというのは812年前のウァレリアヌス帝以来のことです。Wikipediaによれば、このロマノス4世は同じ1071年のうちに(不思議なことですが)釈放されます。ところがロマノス4世がコンスタンティノープルに帰ってみると、そこにはエウドキアとその前夫との間の息子ミカエルがミカエル7世としてすでに即位しておりました。その上、用済みとなったロマノスは捕らえられて、目をつぶされたうえで追放されたのでした。エウドキアのことを考えると恐ろしいです。翌年1072年、ロマノス4世は死去したといいます。おそらく敗戦のショックよりも妻に捨てられたショックのせいで死んだのではないでしょうか? 私はついつい、そんなふうに考えてしまいます。


ところで、目をつぶす、というのは残酷な話ですが、ローマ帝国では五体満足な者しか皇帝になれないという不文律があったそうです。それで皇帝になる危険性のある人物の眼をつぶすことはよくある話なのでした。

*1:つまりはローマ帝国