ローマは1日にして滅びず(8)

紀元1180年 ゴート族のドナウ渡河から802年

マヌエル1世による征服

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またローマ帝国は盛り返しました。1025年のバシレイオス1世の頃には及びませんが、1095年の時より領土を増やしています。盛り返した立役者はマヌエル1世、その治世は38年におよびました。かつてマンツィケルトの戦い(参照)で見られたような貴族の忠誠心の弱さをどのように克服したのでしょうか? それはマヌエル1世の祖父にあたるアレクシオス1世にまでさかのぼります。彼は貴族の一員コムネノス家の出身でしたが皇帝になると、他の貴族との複雑な血縁関係を結び、同時にコムネノス家が中心となるように貴族間の序列を構築しました。これによってふたたび皇帝の求心力が高まったのでした。


1180年はこのマヌエル1世が没した年です。この時がローマ帝国の最後の盛り返しの時でした。最後の偉大なローマ皇帝マヌエル1世については、「ビザンツ 幻影の世界帝国」が詳しく記述しています。


さて「幻影の世界帝国」というのはどういう意味でしょうか? この時期のローマ帝国(=ビザンティン帝国)は盛り返したとはいえ、とても世界帝国を名乗れる実力はなかったのですが、それでも古代ローマ帝国そのままの世界帝国を標榜し続けていた、ということです。つまりは、実力は上の1180年の地図に示すようであっても、建前としては

  • http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/46/Roman_Empire_Territories.png

であるかのように振舞っていたということです。

 12世紀のビザンツ帝国には、昔日の大ローマ帝国の面影はすでになく、「全世界の支配者」の標榜は政治的虚構以外の何物でもなかったのは事実である。だが、ビザンツ皇帝は「ローマ人の皇帝」の称号にこだわり、西欧人が彼らに付した「ギリシア人の王」というレッテルを断固拒否した。
 なぜなら、ユスティニアヌスの時代のように飛び抜けた国力を持ちえぬ現状では、アウグストゥス以来連綿とつづくローマ皇帝の直系の相続人、という輝かしい伝統の「力」が、政治的ライヴァルたちに対して自己の優位性を主張する際に、重要な武器になったからだ。


ビザンツ 幻影の世界帝国」より


確かにイタリア人がやってこようがドイツ人がやってこようが、「おまえたちが支配する地域はかつて、我々の祖先が支配していたところなのだ。それだけでなく、今のお前たちよりもすぐれた文明を築き上げていたのだ。」ということを主張すれば、相手はそれに威圧を感じることでしょう。そしてひょっとすると尊敬の念を覚えてくれるかもしれません。
当時のローマ帝国には幸いこの幻影を支えるものがありました。それは地中海随一の経済力です。金の力にものをいわせて多民族からなる傭兵軍を率いる、あるいは、周囲のある国に資金援助して別の国を攻撃させる(いわゆる「夷をもって夷を征する」政策)、あるいは、周囲のある国の中の反政府勢力に資金援助して国内不安を醸成させる、というのがマヌエル1世の外交政策でした。



しかしやがてその金も尽きていきます。1180年の帝国は国際関係の危ういバランスの上に成り立っていました。マヌエルの死後、そのバランスがガラガラと崩れます。そして25年もしないうちにローマ帝国は滅びます。それも借金の担保(かた)に取られるという、情けない形で・・・・。