ローマは1日にして滅びず(13)

紀元800年 カールの戴冠  西ローマ帝国の復活

・・・・・「REX PATER EUROPAE ヨーロッパの父にして王」カールは、長期の領土巡幸に出発したが、この行幸は結局ローマ再訪と長年の宿願の達成をもたらすことになる。五人目の妻で最後の妃であった美しいリウトガルダが巡幸の途上で他界したため悲嘆に暮れつつ、800年11月にローマに到着した。サン・ピエトロ大聖堂のクリスマスのミサに際して教皇レオ3世はカールの今や白髪となった頭上に帝冠を戴かせ、会衆一同は起立して四辺の壁に反響する歓呼の言葉を叫んだ。「ローマ人の偉大な平和の皇帝、神によって戴冠されたカルロス・アウグストゥスに長寿と勝利あれ」西ローマ帝国の再興がなった。


クリストファー・ヒバート著 横山徳爾訳「ローマ ある都市の伝記」

フランクの国王カールは、(この時代では珍しくないのですが)生れた年がはっきりしていません。ここでは五十嵐修氏の「地上の夢 キリスト教帝国」

に従って748年4月誕生説を採ります。そうすると上のカール戴冠の時、彼は52歳だったことになります。
それにしても紀元800年のクリスマスにローマのサン・ピエトロ大聖堂で、という時間と場所の演出効果はすばらしいものだったことでしょう。紀元800年のクリスマスというのはイエス・キリストが生れてからちょうど800年目の、まさにその日、ということです。しかも場所は、西ヨーロッパのキリスト教の中心地、ローマのサン・ピエトロ寺院(つまりバチカン)です。その時、その場所で、ローマ法王レオ3世はカールに皇帝の冠を授けたのでした。


しかしよく考えてみると、なんでローマ法王がそんなにえらいの? ローマ法王が皇帝を勝手に選んでいいの? という疑問がわきます。
ローマ法王には皇帝を選ぶ権利があるのだ!」というのがローマ法王側の意見です。ローマ法王とその周辺にはコンスタンティヌスの定め」という文書が伝えられていました。ここで先走って言ってしまうと、中世というのは「偽文書」の時代です。(おもしろいことに日本でも中世は偽文書の時代です。)
さて、この「コンスタンティヌスの定め」によれば、かつて妻や息子を殺したコンスタンティヌス1世、つまりローマ皇帝のなかで初めてキリスト教を公認した皇帝、は、今までの行いを当時のローマ法王シルヴェステルの前に涙ながら懺悔し、ローマ教会に皇帝の権力と栄光を与えた、と言います。そしてコンスタンティヌス1世はローマ法王に皇帝の冠を載せようとしたが、ローマ法王はそれを拒否し、あらためてコンスタンティヌスに皇帝の冠を載せ、彼を皇帝に任命した、というのです。この文書の主張するところは、ローマ法王は皇帝を任命する権利がある、ということです。ローマ法王側は、この文書をたてにとり、カールへの戴冠を正当化します。ところがこの文書はおそらく8世紀の間に書かれた偽文書でした。


ところで、今まで都市ローマがランゴバルト王国の侵略の危険にさらされた時、コンスタンティノープルにあるローマ帝国政府は何も援助をしてくれませんでした。実は、何も援助をしないのではなくて、したくても国力が弱くて出来なかったのでした。それを助けたのが今のフランスを中心とするフランク王国です。特にカールがその国王に就任してからは、その領土がそれまでの2倍になりました。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d9/Empire_carolingien_768-811.jpg
もちろんこれはかつての西ローマ帝国に比べると小さな領域です。アフリカ大陸には領土はないしスペインも一部を除いて領土の外です。ちょっと西ローマ帝国を名乗るには見劣りします。とはいえ、本家本元の(東)ローマ帝国もこの時にはそれほど領土を持っているわけではなかったのでした。こういう経緯から考えて、ローマ法王が、コンスタンティノープルローマ帝国よりも、(今のフランスの)パリや(今のドイツの)アーヘンを中心とするフランク王国のほうをたよりに思い、カールを皇帝にすることによって自分の権威を強化しようと考えることは容易に想像出来ることです。
ローマ法王側には、もうひとつ、カールを皇帝に推す論拠がありました。それは当時のローマ帝国の皇帝がエイレーネーという女性だったことです。「女性は皇帝になれない。」 これは当時のヨーロッパの東も西も認める共通認識でした。これを言われるとローマ帝国側もつらいところがあります。でも、この主張については、2年後の802年のコンスタンティノープルでの宮廷クーデタによりエイレーネーは失脚し、男性であるニケフォロス1世が即位することによって、早くも崩れてしまいました。


大きな目で見るとカールの戴冠は、コンスタンティノープルを中心とするローマ帝国に対する西側世界の独立宣言という意味合いを帯びています。というのは、それまで西側諸国は、現実政治的にはローマ帝国の支配を脱しているにもかかわらず、やはり往年の帝国の威光がまぶしかったのか、外交文書でローマ皇帝を指し示す場合は、「」という言葉を用いていました(この事項は渡辺金一著「中世ローマ帝国」によります。)これに対応してローマ皇帝もこれら諸国の君主に対して「」という呼称を用いていました。
ところがカールが皇帝になったのちは、カールはローマ皇帝に対して外交文書で「兄弟よ」と呼びかけるようになったのです。つまり、ここに表われているのは、西側諸国のローマ帝国からの離脱、独立、です。