ローマは1日にして滅びず(15)

カールの帝国、その後

カールがローマ帝国の復活というものをあまり本気にしなかったと思われるのは、806年に出した「王国分割令」からも伺われます。ここではカールのあとを継ぐ3人の息子に対して自分の王国(フランク王国)を3つに分割(ほぼ等分割)することを指示しています。こんなことをしたらせっかく復活した西ローマ帝国がまたしても小国群に分解してしまいます。ところがこの3人のうち2人がカールが存命の間にばたばたと死んでしまったため、この問題は解決します。813年カールは残った息子ルイ(1世)に皇帝の冠を授けます。この時、冠を授けたのはローマ法王ではなくてカール自身でした。翌年、カールは死去します。
カールのあとを継いだルイ1世にも複数の子供がいました。そして彼はカールがかつてしたようにこの国を子供たちに分割してしまいます。ルイ1世の治世の後半はその領土分割に異議を唱える子供たちの間の、あるいは子供とルイ1世の間の戦乱で埋められてしまいます。こうしてカールの帝国は3つに分割されてしまいました。それは今のフランス・ドイツ・北イタリア(南イタリアはまだこの時東ローマ帝国領)にあたる部分です。しかしその後も分割相続は続いて、かつての帝国は3つどころかもっと多くに分割されて何がなんだか分からなくなります。
皇帝の位はどうなったでしょうか? 皇帝は単なる名誉称号に過ぎなくなりました。それを持っていたとしても広大な領域の支配権を持つわけでもありませんでした。ルイ1世の次にはその子ロタール1世(ロタリオ1世)が皇帝になり次はその子ルイ2世が皇帝になったところまでは順当ですが、その次はその叔父シャルル2世が、その次はシャルル2世の甥カール3世が継ぐというふうに家系の中をあちこち飛び、その次にいたってはロタール1世の娘の子グイド・デ・スポレートに継がれてカールの家系から飛び出してしまいます。そのうちにルイ1世の3人の子供たちの家系はみんな断絶してしまいます。西ローマ帝国の復活は、はかない夢となりました。


この頃の都市ローマの様子が藤沢道郎氏の「物語 イタリアの歴史II」

に「第三話 マローツィア婦人とその息子たちの物語」として出ています。このブログのエントリ(2007年)「物語 イタリアの歴史II」に紹介を書きました。