ローマは1日にして滅びず(16)

961年 2度目の西ローマ帝国の復活

藤沢道郎氏の「物語 イタリアの歴史II」の中の「第三話 マローツィア婦人とその息子たちの物語」をこのブログのエントリ(2007年)「物語 イタリアの歴史II」で紹介しましたが、その記述に表れているように10世紀前半のイタリアは分裂状態、特に都市ローマでは政争は日常茶飯事でした。貴族たちは、ローマ法王、イタリア王、そして今は名ばかりになったけれど名誉称号としては魅力的なローマ皇帝の地位を得ようと互いに争っていました。


この頃、本家本元のローマ帝国、つまり東ローマ帝国はどんな状態だったかといいますと、イスラム教徒とブルガリア人にてこずっている状況でした。特にブルガリアとの関係は一進一退状態でした。ブルガリアに攻め込むが逆にコンスタンティノープルの城壁のところまで攻め込まれてしまうとか、何とか和平のなったブルガリアの力を借りて、スラブ民族の反乱を鎮圧するとか、再びブルガリアを攻めようとしてその北にいた遊牧民族マジャール人(現在のハンガリー人の祖先)と協力して挟み撃ちにしようとしたところが逆に負けてしまう、などのことがありました。それでも長い目で見れば国力は徐々に向上していっています。


一方、アルプスの北側、ドイツ(当時は東フランク王国)ではカール大帝の子孫の家系、つまりカロリング家がルードウィヒ幼童王を最後に断絶します(17歳で死去)。西フランク王国、つまり現在のフランスにはまだカロリング家が存続していたので、理論上は東フランク王国西フランク王国編入されるはずでした。そのはずでしたが、東フランクの有力者たち(大公と呼ばれています)はカールの血筋にこだわらず自分たちの間で王を選びます。こうしてまずフランケン大公のコンラートが王に選出され、次にはザクセン大公のハインリヒが選出されます。特にハインリヒはその頃ドイツへの侵入を繰り返していた遊牧民族マジャール人ブルガリアに追われて移動してきたのです。)を撃退して名声を得ます。


936年にハインリヒの子オットーがドイツ王位を継いだ時、ドイツの大公たちは一応はオットーに一目置いているものの自分たちの独立志向は高く、王国はまとまりに欠け、反乱が何度も起こりました。オットーとしては国王の権威にもう少しハクを着けたいところでした。やがてイタリアの情勢がオットーにそのハクを提供することになります。
その頃のイタリア王プロヴァンスロターリオ2世でしたが彼が死ぬとイヴレーア辺境伯ベレンガールが、その未亡人アデライーデを捕らえて監禁し、自ら王位につくという事件がありました。未亡人アデライーデはオットーに助けを求めました。イタリアへの進出を狙っていたオットーは大軍を率いてアルプスを越え、この姫を救出すると、(オットーはその前に妻を亡くしていたので)この姫と結婚し、イタリア王位を継承しました。ところがその頃ドイツ国内にまたしてもマジャール人が侵入し始め、その対策のためにオットーはドイツに戻らなければならなくなりました。955年、レッヒフェルトでオットーの軍はマジャール軍を大破、最終的に侵入を食い止めます。彼らは今のハンガリーに居を定めることになりました。このことでドイツ国内におけるオットーの権威はさらに高まりました。
ところがオットーがイタリアを留守にしている間にベレンガールは再び力をつけ法王ヨハネス12世のいるローマへ迫ります(ところでこのヨハネス12世というのは「マローツィア婦人とその息子たちの物語」に登場したマローツィアの孫です。すなわちマローツィアの息子アルベリコのそのまた息子がヨハネス12世なのです。)。法王はオットーに救援を求めました。再びアルプスを越えてローマに来たオットーに対して、法王はローマ皇帝冠を授けました。961年のことです。オットーはローマ皇帝オットー1世となりました。オットー1世の権威はドイツとイタリアの北半分にしか有効でなく、西フランク(フランス)は彼の権威に服さなかったので、この帝国はかつてのカール大帝の帝国よりも西フランクの部分だけ少なくなったのですが、それでもカールの帝国を継ぐものと考えられました。つまりは西ローマ帝国の2度目の復活とみなされたのでした。
オットー1世は、カール大帝よりもローマ帝国の復活ということを本気で考えていたふしがあります。第一に彼とその後継者たちは都市ローマを支配下に置き、ローマ法王から皇帝冠を受けることにこだわりました。そのために何度もローマ遠征を行いました。第二にカール大帝やルイ1世のように自分の王国を子供たちに分割相続させるということはしませんでした。第三にオットー1世は自分の息子オットー2世の嫁として東ローマ帝国の皇帝ヨハネス1世の姪テオファヌを迎えました。ローマ皇帝の妃たるもの、それほどの高貴さが必要であると、おそらく考えたのでしょう。


・・・・そう、ローマ(という幻想)は1日では滅びないのです。