ローマは1日にして滅びず(21)

紀元1001年。暗転

紀元1001年、ローマ市はオットー3世に対して蜂起しました。オットー3世はこの時、パラティーノの丘の宮殿にいました。そしてオットーにとって不都合なことには、この宮殿は古代ローマ風に建てられており、籠城するには適していませんでした。その上、オットーの軍隊はこの時、都市ローマから離れていました。これらの状況を考えてオットーと宮廷の人々は、包囲を突破します。


サンタンジェロに避難したオットー3世は、反乱者の中心に、信頼していたトゥスクルム伯がいることを知ってショックを受けます。彼は今までオットーに協力してきたローマ貴族でした。オットーは反乱者たちに対してこう言ったと伝えられています。


「汝らは余のローマ人ではないのか? 汝らのために余は余の故郷と親族をあとにし、汝らを愛するがゆえに、余のザクセン人とすべてのドイツ人、すなわち余自身の血をむしろ軽んじたのだ。」


残念ながら、反乱者たちにとって自分たちは「オットーの考えるところの」ローマ人などではなかったのでしょう。オットーは自分の意識では、自分をドイツ人であるよりも彼らの一員として統治してきたつもりだったのに、それが単なる虚構に過ぎないことが明らかになったのです。


その後、救援に駆けつけたトスカナ辺境伯の軍隊によってオットーはラヴェンナに撤退することが出来ました。一時は真剣に退位して修道士になることを考えましたが、やがて都市ローマを奪還することを決心し、アルプスの北のドイツ諸侯に対し軍の召集を命じます。そして、さきに駆けつけたケルン大司教ヘリベルトの軍とともにローマへ進軍を開始しました。しかしその途上、1002年の1月、彼はマラリアに冒されて死んでしまいます。21歳でした。その後もしばらくの間、オットーの死をまだ知らなかったドイツ諸侯の軍隊がアルプスを越えて到着します。そして、死んだオットーのまわりに集結した軍団は、その遺体を運んでアルプスの北へと去っていきました。彼の独特の個性を失った今、ローマを首都とする理由は誰の胸にもありません。短いローマ帝国の復興は終りました。