ローマは1日にして滅びず(26)

しかし、このローマ帝国はかつての栄光を取り戻すことは出来ませんでした。法王側は皇帝権力の増大を怖れてイタリア、ドイツの各地に反乱をけしかけました。法王側には自前の軍隊はあまりありませんが、破門という強力な精神的武器がありました。とうとうフリードリヒ2世の息子、ドイツ王でもあったハインリヒさえもが叛旗を翻します。フリードリヒは、我が子の周りにいる者たちを金で懐柔し、弱体化したハインリヒ軍の本体を簡単に撃破して我が子を捕らえます。このハインリヒは護送の途中、隙をみて飛び出し、崖から飛び落りて自ら命を断つのですが、それを知ったフリードリヒの述懐が記録されています。藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」では以下のようにそれを紹介しています。

皇帝フェデリーコの様子は常と変らぬように見えたが、彼の心は血を流していた。身近の者にこう心中を洩らしたという。「外敵に一度たりとも敗れたことのない帝王が、身内の問題に苦しんで打ちひしがれていると知れば、世の心猛き父親たちはさぞ驚くことだろう。だが、王者の心がどれほど不撓であれ、その感情はやはり自然の法則に従うものである。子の罪悪に憤りつつもその墓の前で涙を流す親は、昔も今も絶えることはあるまい」。フェデリーコはすでに、引き返すことのできない魔道に踏み入れていた。


藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」より


しかし帝王としてフリードリヒは感傷に浸っていてばかりいるわけにはいきません。冷静に対策を検討した結果、次子コンラートをドイツ王に任命し、他の二人の子、マンフレディとエンツォを伴ってイタリア各地を転戦し、反乱を鎮圧しました。しかし降伏した敵は隙をみてすぐに寝返り、鎮圧行はどこまでいってもキリがありませんでした。

皇帝は依然として不敗で、戦闘には必ず勝利したが、いくら残酷に弾圧を加えても反乱の芽は摘み切れなかった。


藤沢道郎著「物語 イタリアの歴史」より

やがてフリードリヒは疲れてきます。1250年、ローマ皇帝フリードリヒ2世は、南イタリアの小さな村フィオレンティーノで死去しました。55歳でした。死因は赤痢だと伝えられています。しかし彼とともに世界帝国の幻はすぐに消滅したわけではありませんでした。彼のあとには息子コンラートが、そしてコンラートがマラリアで倒れたのちは、その弟マンフレディが、そしてマンフレディがフランス王の弟であるシャルル・ダンジュー(彼はローマ法王の支持のもとに軍を起こしたのでした)の挑戦を受けて戦死したのちは、コンラートの子のコンラディンがこの帝国の存続のために戦いました。そしてコンラディンがシャルル・ダンジューに捕捉され、ナポリで斬首されることでこの幻は最終的に消えます。フリードリヒ2世の死の18年後のことでした。彼の孫にあたるコンラディンは、この時まだ15歳でした。