中国系神秘

台湾出張の影響でちょっと、古代中国的な神秘思想に浸りたくなりました。神秘といってもおどろおどろしいものではなく、占いの易の周辺です。
まずは、易経から

一陰一陽之謂道(一陰一陽これを道という)


易経 繋辭上傳

つまり、「あるときはマイナスになり、あるときはプラスになる何物か、この何物かのことを道(タオ)という。」 何だか分かったような分からないような。こういうのが子供の頃好きでしたね。さて、この道(タオ)について老子はこう言っています。(書物としての)「老子」の冒頭です。

道可道、非常道(道のいうべきは、常の道にあらず)


老子 第一章

言い表すことの出来る道(タオ)は、恒常的な道ではない。(不変の道は言い表すことが出来ない。) 道は言い表すことが出来ないならば、道について議論することも出来ないのではないのかと思うのですが・・・。議論するのではなく体得せよ、と言いたいのでしょうか? もうひとつ老子から気になる個所を。

道生一、一生二、二生三、三生万物(道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。)


老子 第四十二章

これを読むと、西洋錬金術の格言のひとつである、哲学者マリアの格言

一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり

を思い出します。どちらも一から万物が分化し生成するさまを言い表しているのでしょう。中国とヨーロッパのそれぞれの秘教的伝統に同じような格言があるのは興味深いです。さて、老子の文章に戻って考えると、「道」はゼロにほかならないことになります。とすれば「道」は「無」と言うことも出来るでしょう。「道」を言い表すことが出来なければ、それが「無」と名づけられるのも納得できます。易経でこれに近い言葉は以下でしょうか。

是故易有大極。是生兩儀。兩儀生四象四象八卦八卦定吉凶。吉凶生大業(この故に易に大極あり。これ兩儀を生ず。兩儀は四象を生じ、四象八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。)


易経 繋辭上傳

老子のいう「一」を「大極」と解釈し、「二」を「兩儀」と解釈し、「三」を「大極と兩儀」と解釈することが出来るのかもしれません。すると「道」は? 「道」は「無極」なのでしょう。昨日の「ト・ヘン(to hen)」と比較すると面白いです。「ト・ヘン(to hen)」はけっして「無」ではないと私は思います。でも、本当か? あれは「非ず非ずのアートマン」ではないのか?