天村雲命(あめのむらくものみこと)

この天村雲命については先代旧事本紀ではなく、伊勢神宮関係の文書によって神話が伝えられています。これについてはすでに「上御井(かみのみい)神社」でご紹介しましたが、もう一度、ここに掲載します。ここに引用するのは
山本ひろ子氏の「中世神話」

に載せられた記事です。

 降臨に際して皇孫命(すめみまのみこと)は、度会神主の先祖=天村雲命を召して詔した。「治める国(食国(おすくに))の水は熟していず、荒い水である。また水も忘れてきてしまった。だから御祖命(みおやのみこと)のもとに参ってこの由を申せ」。
 そこで天村雲命は御祖命の所に上り、詳しく事の次第を述べた。すると御祖命は詔した。
「さまざまの政(まつりごと)を天下に伝えたが、水取(もいと)りの政は、逸してしまった。どの神を下そうかと思っていたところ、勇ましくもやってきたことだよ。忍穂井の水を取り持ってゆき、八盛(やもり)に盛って奉れ。その残りを食国の水に灌(そそ)ぎ、和らげよ。また降臨にお伴する八十人の従者たちにも、この水を飲ませよ」。こう詔して、神は神宝(かんだから)と清らかな水を授けた。
 天村雲命が水を持参して奉ると、皇孫命は「どの道より参ったか」と尋ねた。そこで
「大橋は、皇太神と皇孫命が天降りする橋なのではばかり、後ろの小橋より参上しました」
と申しあげた。すると皇孫命は、「慎しみを示して、後ろで奉仕したのはすばらしい」と言って、天村雲命に「天二登命(あめのふたのぼりのみこと)」、「後小橋命(うしろのこはしのみこと)」という名をお与えになった。
 かの朝夕の御饌(みけ)に供える御水は、豊受大神宮(=外宮)の未申の方角に当たる岡に御井を掘り、汲んで供奉する。その水は旱魃にも涸れることはない。
(『神宮雑例集』所載『大同本記』)


山本ひろ子著「中世神話」より


ただし、先代旧事本紀には、天村雲命の別名として「天二登命」とか「後小橋命」は載っていません。さらに外宮の神官の家系である渡会氏の系譜では天村雲命の父親は天御雲命であり、先代旧事本紀日本書紀に登場する天火明命天香語山命は登場しません。そうすると、この天村雲命は、尾張氏の系譜にある天村雲命とは別の神なのでしょうか? それにしては高倉山と天の香具山が同一緯度に並んでいるということが出来すぎているような気がします。これをどう考えたらよいのか、まだ私には解がありません。