オットー・フォン・ハプスブルク―英語版Wikipediaから(1)

幼年期

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オットーは、オーストリアハンガリーのライヘナウ・アン・デア・ラックスにあるヴィラ・ヴァルトホルツ(Villa Wartholz)で生まれた。1912年11月25日、ヴィラ・ヴァルトホルツで、王子にしてウィーンの大司教である、フランツ・ザビエル・ナグル枢機卿によって洗礼を受け、洗礼名を、フランツ・ヨゼフ・オットー・ロベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・フェリックス・レトゥス・ルードヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウスと定められた。彼の代父はオーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ1世であり、オーストリア大公フランツ・フェルディナンドが代理を務めた。彼の代母は彼の祖母であるポルトガルのインファンタ・マリア・アントーニアであった*1。1916年11月、彼の父カール大公が玉座に就いた時、オットーはオーストリアハンガリーボヘミアの皇太子になった。しかし、1918年、第一次世界大戦終結時に君主制は廃止され、その代わりオーストリア共和国ハンガリー共和国が建国され、彼の家族は亡命を強いられた。ハンガリーは再び王国になったが、カールが再び玉座に登ることはけっしてなかった。そうではなく、ミクローシュ・ホルティが1944年まで摂政として、王なき王国を統治した。オットーはドイツ語、ハンガリー語クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話した。後年、彼はドイツ語、ハンガリー語、フランス語、スペイン語で本を書いた*2。彼の母親は、いつの日か彼が多くの国を統治するだろうと信じていたので、彼に多くの言語を学ばせた*3

亡命の年月

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オットーの家族はその後の数年をスイスで、次にポルトガルマデイラ島で過ごしたが、マデイラ島で1922年、カールが若くして死に、9歳のオットーは王位請求者として残された。カールの死の床で、オットーの母、元皇后であるツィタは9歳のオットーに「あなたの父はいまや永遠の眠りについた。あなたはいまや(オーストリアの)皇帝兼(ハンガリーの)国王である」と語った*4。結局家族はバスク地方の町、レケイティオに移転した。40名のスペインの大公が彼らのためにそこにヴィラを購入した。一方、オーストリア議会は公式にハプスブルク王朝を追放し、全ての公式資産を没収した(1919年4月3日のハプスブルク法)。彼は政治学社会学の博士号を得て、ベルギーのルーヴァン大学を卒業した*5。父の死後、オットーの生涯の残りはずっと亡命の日々であったが、彼は自分を正当なオーストリア皇帝であると考え、多くの機会にこのことを述べてきた。1937年かれは、こう書いている*6

  • オーストリア人の大多数が以前にもまして私に、わが愛する父、平和な皇帝の遺産を引き受けて欲しいと思っていることを私はよく知っている。(・・・) [オーストリアの]人々は、共和国に賛成の票をけっして投じなかった。彼らは、長い戦いに疲れきり、1918年と1919年の革命家の大胆さに驚愕している限り、沈黙したままだった。革命が彼らの生きる権利と自由を侵したと理解した時、彼らはあきらめを振り払った。(・・・) そのような信頼は私に重荷を課すものである。私は喜んでそれを受け入れる。神が望めば、君主と人民の間の再結合の時がまもなくやってくるだろう。

彼はオーストリアにおけるかなりの公的支持を享受し続けた。1931年から1938年までの間に、1,603のオーストリア自治体がオットーを名誉市民にした*7


*1:Wiener Zeitung, 26 November 1912

*2: "Otto von Habsburg, heir to Austria's last emperor, dies at 98". The Local. Retrieved 2011-07-05.

*3:Monday, 11 March 1940 (1940-03-11). "Habsburg Empire: Clown Prince". TIME. Retrieved 2011-07-05.

*4:Habsburgs Erbe zerfiel und erlebte dennoch eine Renaissance". Diepresse.com. Retrieved 2011-07-08.

*5:"Otto Hapsburg, eldest son of Austria's last emperor, dies at 98". Thenational.ae. Retrieved 2011-07-06.

*6:Gedächtnisjahrbuch 1937, 9. Jg.: Dem Andenken an Karls von Österreich Kaiser und König. Arbeitsgemeinschaft österreichischer Vereine – Wien, W. Hamburger 1937

*7:Heinz Arnberger, Winfried R. Garscha, Rudolf G. Ardelt, Christa Mitterrutzner, Anschluß 1938, Dokumentationsarchiv des Österreichischen Widerstandes, Österreichischer Bundesverlag, 1988, ISBN 3215068249