オットー・フォン・ハプスブルク 英語版Wikipediaから(2)

第二次世界大戦

オットーは、オーストリアナチス・ドイツへの併合に強く反対した。1938年、彼はオーストリア首相クルト・シュシュニクにナチスに抵抗するよう要求し国際的介入を支持した*1。そしてヒトラーを追い返すために政府の統治を引き継ぐ目的で亡命から戻ることを提案した*2。ジェラルド・ワーナーによると「オーストリアユダヤ人はハプスブルクの復帰の最も強い支持者のうちの1グループであった。というのは王朝は、第三帝国に対抗する決心を持つのに充分な国家を与えてくれるだろうと彼らは信じたからだ。」ということである*3
ドイツのオーストリア併合ののち、オットーはナチスによって死を宣告された*4アドルフ・ヒトラーが命じたように、彼の個人的財産とハプスブルク家の財産は没収され戦後になっても戻らなかった*5。いわゆる「ハプスブルク法」は以前に廃止されていたが、拙劣な共和主義者と反君主制ナチスによって再導入された。オーストリア正当主義運動、つまりオットー支持者、のリーダーはナチスによって逮捕され、大部分は処刑された(シュテファン・ツヴァイクの短編小説「王のゲーム」はこれらの事件に基づいている)。オットーのいとこであるマックス・フォン・ホーエンベルク公爵とエルネスト・フォン・ホーエンベルク公爵はウィーンでゲシュタポによって逮捕されダッハウ強制収容所へ送られた。彼らはそこにナチの支配が続く間、収容されていた。オットーは第二次世界大戦のはじめ、数千人のオーストリアユダヤ人を含む約15,000人*6が国外に脱出するのを手伝うことに関係していた*7 *8
ルドルフ・ヘスはオットーが逮捕されたならばすぐに処刑せよ、と命じた*9。ドイツのフランス侵入後、家族はフランスの首都を去り、ボルドーポルトガル領事であるアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスの発行したヴィザを持ってポルトガルに逃亡した。自分自身の安全のために彼はヨーロッパ大陸を離れ、ワシントンDCに1940年から1944年まで住んでいた。彼の戦争中の亡命先はアメリカであった。彼はオーストリアへの爆撃を止めるか制限するよう尽力した*10アメリカで彼はオーストリアの日を始め、オーストリアを郵便切手の「占領された国々」のシリーズに入れてもらうことが出来た。彼は保守的な「ドナウ連邦」、実質的にはオーストリアハンガリーの復興についてウィンストン・チャーチルの支持を得たが、スターリンがこれらの計画に終止符を打った*11。彼はオーストリア亡命政権の認知のために、南チロルのドイツ語を話す人々の権利のために、また、ボヘミアと東ヨーロッパのドイツ語を話す住民の強制退去に反対して、そして東ヨーロッパをスターリン支配下に置くことに反対して、陳情を行った*12
1941年、アドルフ・ヒトラーは個人的にオットーとその母、その兄弟たちの市民権を取り消し、これら皇族は自分たちが無国籍になったのに気づいた*13

第二次世界大戦

戦争終了後、オットーはヨーロッパへ戻り、数年間フランスとスペインに住んだ。1949年、彼は数人の人々にオーストリアの高貴な称号を与えて、叙勲した。しかしオーストリア共和国はそれを認めなかった。彼はパスポートを所有せず、事実上無国籍だったので、1946年シャルル・ド・ゴールの介入のおかげでモナコ公国のパスポートを与えられた。マルタの騎士として、騎士団も彼に外交旅券を発行した。のちに、彼はスペインの外交旅券も与えられた*14。1956年、オットーは下オーストリア州政府によりオーストリア市民として認知され、「オーストリアを除く全ての国で有効な」オーストリアのパスポートを与えられた*15。複数の機会に、そして1960年代頃になって、オーストリア警察は「共和国の敵」が国内に入ったのではないかと疑って、オットーを探した。

*1:Kaiser-Sohn Otto von Habsburg gestorben Deutsche Welle, 04 July 2011 (German)

*2:"Archduke Otto von Habsburg". Telegraph. Retrieved 2011-07-06.

*3:^ Warner, Gerald (2008-11-20). "Otto von Habsburg's 96th birthday telescopes European history". telegraph.co.uk. Retrieved 2011-07-06.

*4:Dan van der Vat. "Otto von Habsburg obituary". The Guardian. Retrieved 2011-07-06.

*5:Zoch, Irene (2004-02-22). "Habsburgs demand return of estates seized by Nazis in 1938". Telegraph. Retrieved 2011-07-06.

*6:Otto von Habsburg, oldest son of Austria-Hungary's last emperor, dies at age 98". Newser. Retrieved 2011-07-06.

*7:Otto Hapsburg, eldest son of Austria's last emperor, dies at 98". Thenational.ae. Retrieved 2011-07-06.

*8:http://www.heraldscotland.com/mobile/comment/obituaries/otto-von-habsburg-1.1110433

*9:Oliver Meidl: Monarch. A Life for Europe - Republican Recognition in Black and Yellow.[Full

*10:"Otto von Habsburg, oldest son of Austria-Hungary's last emperor, dies at age 98". Newser. Retrieved 2011-07-06.

*11: "Archduke Otto von Habsburg". Telegraph. Retrieved 2011-07-06.

*12: "Sie nannten ihn 'Otto von Europa'". Die-tagespost.de. Retrieved 2011-07-08.

*13:http://www.heraldscotland.com/mobile/comment/obituaries/otto-von-habsburg-1.1110433

*14:http://www.kathweb.at/site/nachrichten/database/40510.html

*15:Oliver Meidl: Monarch. A Life for Europe - Republican Recognition in Black and Yellow.