現実はダイナミックに変転するカオスだが、数理モデルは静止したコスモスである。前者を後者のうちに写像して、はじきだした答をもっともらしく提示するのが応用数学のレトリックである。だが需要予測にせよリスク・アナリシスにせよ、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」程度のものだということは、じつは皆知っている。現実は<偶然的>な事件の連鎖なのに、数理モデルは<必然的>な命題の論理的関係なのだから、両者が食い違うのも無理はない。
「デジタル・ナルシス」西垣 通著 より
デジタル・ナルシス―情報科学パイオニアたちの欲望 (同時代ライブラリー (293))
- 作者: 西垣通
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/01/14
- メディア: 新書
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ちょっと前にこの本で上の個所を読んで、めげてしまった。確かに現実からいろいろな状況や条件を取り払って抽象化しないと数理モデルは作れない。私が今、いろいろいじくっている待ち行列理論にしたって、これを工場の生産状況を分析するのに使用する際、たとえばジョブの到着する様子がどのような分布になるのかなかなか特定出来ない。それに待ち行列理論では定常状態を仮定するが、工場の中が定常状態であるとはとても思えない。市場動向により、あるいは生産方法の革新により、状況が常に変わっていく性質のものだろうと思う。
オペレーションズ・リサーチの専門家は、数理モデルの細かい技巧に関する論文作成で忙しくて、こんなアポリアで時間をつぶしている暇はない。せいぜい、「モデルの精度」とか「近似誤差」といった用語のなかに、全てを一緒くたに押し込んで事足れりとするのが不文律となっている。
同上
そこまで言われると反発したくなる。しかし、大切なのは精度ではなくて傾向ではないだろうか? 工場にジョブを詰め込みすぎるとサイクルタイムが伸びる、とか、逆に少なすぎるとスループットが低下する、とか、装置の停止は小まめにしたほうが同じ合計時間でもまとめて長く停止するより待ち時間が短くなる、とかいった、一般的な傾向を数理的モデルは明らかにすることが出来るのではないだろうか? そこにおいては「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という批判はあたらない(・・・と思う)。
私もあまりモデルの精度を追求するよりも、そこからどのような傾向を言うことが出来るかについて検討していくべきなんだろう。