遷宮と三島の「豊饒の海」

昨日の伊勢内宮の式年遷宮の様子をテレビで見ていた時に突然思いついたことがあった。三島由紀夫の遺作になった「豊饒の海」四部作が実は式年遷宮の年に連動しているのではないか、という仮説を思いついたのだった。
豊饒の海」は、主人公が20歳で死ぬ運命にあり、その魂が転生して次の小説の主人公になるという四部作だ。一方、伊勢神宮式年遷宮も20年毎に挙行される。ひょっとしたら三島はこの小説の中に式年遷宮との関連を仕組んでいたのではないか・・・・と。このような説は自分は今まで見たことがないので、ちょっと興奮した。


しかし、これを調べてみると、なかなか事情は微妙だった。四番目の小説「天人五衰」の主人公、安永透の誕生日は小説中に1954年3月20日という記述があり、式年遷宮の年とはおしいことに1年ズレている。この近くの遷宮は1年前の1953年(昭和28年)だった。


とはいえ、この四部作と式年遷宮が無関係であると断言することは出来ない。第2巻「奔馬」の主人公、右翼青年、飯沼勲は1933年(昭和8年)に死んで(切腹して)いる。これは1953年の式年遷宮の20年前なので、これこそ、「豊饒の海」と式年遷宮の関係を示す証拠だと、私は一旦は思った。しかし調べてみると1933年に式年遷宮が行なわれた事実はなく、一番近い式年遷宮は1929年(昭和4年)だった。つまり、大東亜戦争の影響のために予定通り式年遷宮を行なうことが出来ず、戦後の最初の式年遷宮は1953年にズレこんだということだそうだ。


ということで、「豊饒の海」四部作が実は式年遷宮の年に連動しているのではないか、という仮説はあえなく棄却された。


とはいえ、余韻は残る。この四部作の最終の結末、聡子の言葉「それも心々(こころごころ)ですさかい」から考えれば何でもありのような気がする。ちょうど、数理論理学でたった1つでも矛盾する結果が得られたならば、互いに矛盾する全ての言明が肯定されてしまい、数学の全伽藍が崩れ落ちるように。

 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸(しおりど)も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際(きわ)に花咲いた撫子(なでしこ)がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶(すえ)の搨(とう)が芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂の青空には、夏雲がまばゆい肩を聳(そび)やかしている。
 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。・・・・・



三島由紀夫天人五衰

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

より