イシスの嘆きとナイル河の増水
イシスの涙。イシスの血。イシスの悲嘆の言葉。魔力のこもった言葉。
彼女の夫は謀殺された。彼女の夫はエジプトの王、善政をしき、人々に文明を教えた慈悲深き王、オシリス。夫は実の弟のたくらみによって謀殺された。そのことを知ったからにはイシスは悲嘆せずにはおられない。
紀元1〜2世紀のギリシア人、プルタルコスはこう記す。
テュポンは、ひそかにオシリスの体の寸法を計り、その寸法にぴったりの、美しく、見事に装飾をほどこした箱を造らせると、それを広間の宴席に運び込みました。一同の者がそれを一目見てきれいだと言い、賛嘆措くあたわずという風情でいますと、テュポンはいかにも冗談めかして、どなたでもこの箱の中にお休みになって、お体が箱にぴったり合う方がいらっしゃいましたら、これを進呈いたしましょうと約束しました。そこで人々が代わる代わる試してみましたが、誰もうまく合いませんのでオシリスが箱の中に入って横になりました。すると共謀者どもが駆け寄って乱暴に蓋をかぶせるや、外からボルトを打ち込んで締め、熱く溶かした鉛をその上から注いで河へかついでゆき、その河に運ばせてタニスの河口から海へ流しました。
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イシスはこれを聞くと、その場でひとつかみの髪を切って、喪服をまといました。
イシスは途方にくれて全土をさまよい、会う人ごとに声をかけ、相手が子供でも、会えば箱のことを知らないかと尋ねました。
テュポンというのはギリシア語の呼び方で、元々のエジプト語ではセトという。紀元前24世紀(!)のピラミッド・テキストも基本的には同じ話を伝えている。
おおセトよ。
かの汝が兄オシリス、ここにあり。
生きながらえて汝を罰せんとて、復原させられしものは。
「ピラミッド・テキスト219 屋形禎亮、杉勇訳」より
ところで、オシリスはナイル川と同一視されることがあった。オシリスの殺害と復活の話は、古代*1のナイル川の周期的な渇水と増水を表わしているという説がある。すでにピラミッド・テキストには
汝(=オシリス)より来たりし水流をうけよ。
「ピラミッド・テキスト423 屋形禎亮、杉勇訳」より
という文章がある。ずっと後世、2,400年後のギリシア人プルタルコスは、以下のように説明する。
例の、オシリスを棺の中に閉じ込める話は、ナイル河の水を隠して無くしてしまうことを表わしているのにほかなりません。ですからアテュルの月にオシリスが行方知れずになるとエジプト人は言うのです。この月は季節風がやんで、ナイル河の水かさがまったく下がってしまい、あたりの土地は裸になり、夜が長くなって闇が広がり、光の勢いが衰えて闇に服従してしまう、そういう時なのです。
つまり、イシスがオシリスの死を歎くことは、一年の周期においてナイルの水流が弱まり、土地の生産力が衰えることを人々が歎くことと二重写しになっている。
しかし、このような悲しみの時期において、イシスとネフチュスの嘆きは無駄にはならない。
19世紀にはまだ使用されていたコプトの暦が伝える伝統によると、ナイルの洪水は「しずくの夜」に始まるという。その夜、「イシスの涙が天から降ってきて河の中に落ち、ナイルを増水させる」のだ。
「エジプトの神秘」より
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イシスの悲嘆は魔力を持ち、妹ネフテュスとともにオシリスを復活させるに到る。
箱の中に寝ているのがオシリス。左側に立っているのがイシス。右側がネフテュス
この神話において、イシスとネフテュスがオシリスの復活を喜ぶことは、ナイル河の増水を人々が喜ぶ心情と並行している。
ペーの神々は悲しみにみち、イシスとネフテュスは悲嘆の叫びをあげ、オシリスがもとに来る。(中略)
かれら、オシリスに向かいて言う。
「行き、来り。目覚め、眠れ。汝が生命、不朽なればなり。
立ち上がり、これを見よ。立ち上がり、これを聞け。(中略)
汝が長女*2こそ汝の体を拾い集め、汝の両手を閉じ、汝を探し求め、
ネディトの河岸に横たわる汝を見いだせしものなり。
かくて双穹の悲嘆は終わらん」
「ピラミッド・テキスト482 屋形禎亮、杉勇訳」より
この悲しみが希望に逆転する瞬間を表わしているのが、タロットカードの17番「星」である、というのが私の意見である。
この絵は、ナイルの増水を表わす古代エジプトのフィラエ神殿の壁画
を踏まえ、壺の中の水を地に注ぐ仕草でナイルの増水を象徴するとともに、注ぐ主体をナイル河を神格化したハピから女神イシスに変えることで、オシリスの受難と復活の神話との関連を表わしているのだと思う。そしてこの女性、おそらくイシスを表わしているであろうこの女性の頭上に輝くひときわ大きな星は、その星が明け方に現れるとナイル河が増水し始めると古代エジプト人が考えていたシリウスを表わしている、と私は解釈している。夜の中で希望の星が輝くのを待っている人は多いことだろう。