日本の神々 谷川健一著

記述がさらっとしているので、そのまま読んでいると重要なことを見落としてしまいそうでこわい。

時局の先棒を担ぎ、国策の尻馬に乗った国家神道が、日本の神々の本来あるべき姿でなかったことは、敗戦の手痛い教訓がこれを証明している。戦後に私が一日本人として心の再建を目指して追い求めてきたのは、国家と等身大の神ではなく、幾多の風雪に耐えて日本の歴史や古い文化を今日に伝えてきた神々である。それは古社の片隅に置かれた神であり、農山村や漁村に息づく神、あるいは樹木の下に神域を示す石を並べただけの南島の神、すなわち細部にやどる、いわば路傍の菫ほどの小さき神々であった。私がこれらの神々に心を寄せたのは、小さきものへの愛というだけではなかった。それらの神々もまた「可畏(かしこ)きもの」であった。それらの「小さく」「可畏き」神々がかならずや日本人の根底によこたわる世界観や死生観を開明する手びきになると考えた。


「はじめに」より

この本の内容についてまだ私は消化できていない。それで何もここに書くことが出来ずにいる。たとえばこんな光景が現れる。

古代の夜の世界にくりひろげられた小さな神々と精霊たちの饗宴を思わせる祭が、信州の遠山谷で毎年旧の霜月におこなわれる。遠山の霜月祭では、神社の拝殿に粘土でこしらえたかまどに大釜の湯を沸り立たせ、一晩中「湯立ての神事」をおこなうが、そのとき唱えられる呪詞に、

蝶類のこらず 這(は)う虫のこらず
お湯召せ
お湯召すときは 雲(くんも)とのぼれ

というのがある。また「鎮めの湯の神事」のときは森羅万象にやどる神の名を読みあげてその魂を鎮め、最後に

しずかなれ、しずかなれ、精(せい)しずかなれ
深山(みやま)の 百千(ももち)の精もしずかなれ

と呪文をとなえて、釜の上から湯木で押えつけるようにして叩く所作をする。ここには「深山の百千の精」に対する呼び掛けが見られる。(中略)
 遠山の霜月祭に出てくるのは、蝶類、這(は)う虫、山の精、狼、狐、鬼、天狗など小さき精霊たちであるが、それらが一堂に会して乱舞する光景は、わたしたちをはるかなる古代の夜へ誘う魅力を持っている。


「第3章 流竄の神々」より

ここで私は何を書けばよいのだろう。「深山(みやま)の 百千(ももち)の精もしずかなれ」にある種の安らぎを私は感じる。


この本の最後に出てくる対馬の神社を訪ね歩いた記述はとてもすてきだ。

1975年の春、初めて対馬の土を踏んだ時、対馬の自然の寂寥は格別であったが、それでも私は孤独な旅びとではなかった。山桜の咲く山かげや海のほとりに、小さな神社があった。なかには海中に鳥居のある豊玉町仁位(にい)の和多都美(わたつみ)神社や、また入り江のほとりのわずかな平地に山桜のかげにかくれるようにつつましく息づいている名も知れぬ神社もあった。二、三段石段を降りると、もう入江の波が洗っている。横なぐりの雨の中を紫瀬戸の水道の入口に立っている住吉神社を訪ねたこともある。その神社は、嵐の水道を見守る守護神のように見えた。鴨居瀬と赤島の間の狭い水道を紫瀬戸というのは、紫色の藻が自生するからで、水面に紫色の模様が浮き出て、周囲の山色も映発するからだという。そして北部の佐護では、筏船の浮かぶ港口に、老人の腕のように細い木で作られた鳥居の倒れかかった神社があるのも見た。それが私の探している神皇(かみ)産霊(むすびの)神(かみ)を祀る神社であることを知ったとき、神がみずからを自然の時間の推移にゆだねているのを見て、痛ましさとなつかしさのために、思わず涙がこぼれそうになった。


「終章 回想の神々」より

読みづらいが魅力的な本です。