コンピュータ創世記(7)

フォン・ノイマンENIACのプロジェクトに参加し始めたのは1944年9月だった。このことはまもなくウィーナーに知れたらしい。この年の12月、ノーバート・ウィーナー、フォン・ノイマン、ハワード・エイケンは、さまざまな分野の科学者に、ある学際会議の案内を送った。その会議の趣旨は、通信工学、計算機工学、制御工学、統計学における時系列の数学、神経系における通信と制御の側面の関係が密接になりつつあるので、これらに興味のある人々で討論すれば新しい進歩が期待出来るのではないか、というものであった。ウィーナーがENIACのプロジェクトを知っていたことは、この会議の案内の中に「計算機工学」という単語が入っていること、フォン・ノイマンも会議の提唱者の一人であること、そしてなによりも、案内状を受けた人の中には、ENIACプロジェクトの陸軍アバディーン弾道研究所の窓口であったハーマン・ゴールドスタン博士がいることから明らかである。私がこのことを知って奇異に思うのは、ENIACはそもそも軍事機密のプロジェクトではなかったか、ということだ。そういえば、1944年8月にゴールドスタインが駅で偶然出会ったフォン・ノイマンENIACのことを話していること(これはゴールドスタインの回想に基づく)自体が奇妙なことなのかもしれない。この頃には戦争に勝つ見込みが出てきたので機密のレベルが低くなったのだろうか?


そこで、1944年8月の戦況がどうだったか調べてみた。
まずヨーロッパでは、6月に連合軍のノルマンディー上陸作戦が成功している。7月にはヒトラー暗殺未遂事件が、8月にはワルシャワ蜂起が起きている。この時ソ連軍はワルシャワ蜂起を見殺しにしたが、ソ連軍はワルシャワの10km地点まで到達していた。同じく8月にはパリが解放されている。
一方、アジア・太平洋では7月に日本がインパール作戦を中止し、同じ月に東條内閣が総辞職している。8月にアメリカはテニアン島グアム島を奪回している。こう見てくると連合軍優位の情勢ではあるが、まだこの時点では戦時体制を緩めてよい状況ではないようにみえる。ENIACの機密レベルが緩くなる(緩くなったようにみえる)理由が分からない。


フォン・ノイマンENIACプロジェクトに参加する以前から、モークリーとエッカートはENIACの改良版の設計を始めていた。その途中でフォン・ノイマンがプロジェクトに参加することになったのは、後で「誰がプログラム内蔵方式、つまり、その後、ノイマン型コンピュータ、と呼ばれるようになる方式、を考えたのか」で、もめる原因になったが、それはともかく、モークリーとエッカートは陸軍にENIACの次のコンピュータの開発プロジェクトの契約を認めさせることに成功した。ENIACがまだ完成していないのに、次のコンピュータの名前はEDVACと決まった。これはElectronic Discrete Variable Automatic Computerの頭文字をとったもので、電子式離散変数自動計算機という意味だった。


一方、ウィーナー、ノイマン、ハワードは1945年1月に前述の会議を開催した。ウィーナーの目論見は、1942年5月「脳抑制会議」の時から始めた神経生理学と電子工学の融合という学際研究の流れに、現在まさに生まれつつあるコンピュータ科学を取り込もうとするものだった。

 会議は1月6日と7日にプリンストンで開催され(中略)
 この会議は、学際研究を軌道にのせることを目的にしたもので、フォン・ノイマンやウィーナーといった主要な参加者が研究内容と学際研究の可能性について講演をするというスタイルであった。会議後の1月12日にフォン・ノイマンが会議参加者に出した手紙では、会議内容をふまえたうえで、今後進められるべき四つの研究計画が、参加者の関心と連動して示されている。ウィーナーが長年取り組んできた「濾波と予測の問題」、ウィルクスやフォン・ノイマンが取り組んでいる「高速計算の統計的問題への適用」、フォン・ノイマンやゴールドスタインの戦時研究のテーマであった「高速計算の微分方程式への応用」、そしてデ・ノとマカロックの専門である「神経学」である。(中略)
 ウィーナーは、この会議を「大成功だった」「工学と神経学の両側面を含む主題は本質的に一つであって、こういうアイディアを恒久的な計画的研究にまとめるよう進めるべきだと皆が確信した。」とローゼンブルート*1に書き送っている。


ウィーナーの「サイバネティクス」構想の変遷 : 1942年から1945年の状況――杉本 舞

ウィーナーはのちに自著「サイバネティックス」でこの時の状況を以下のように書いている。

1943年から1944年にかけての冬、プリンストンでその会合が開かれ、技術者、生理学者、数学者をそれぞれ代表する人々がみな出席した。ローゼンブリュート博士は、ちょうどメキシコの国立心臓医学研究所の生理学研究所長の地位につくよう招聘を受けたばかりのところであったので出席できなかったが、マッカロ博士とロックフェラー研究所のローレンテ=デ=ノー博士とは、生理学者を代表して出席した。エイケン博士は出席できなかったが、計算機の設計者の何人かのグループが参加し、ゴールドシュタイン博士もその1人であった。数学者としては、フォン=ノイマン博士、ピッツ氏および私がいた。(中略)会議が終ったとき、出席者のすべてに明らかとなったことは、異なった分野に働いている研究者のあいだにも、実質的に共通な考え方の基盤があるということ、またどの分野の人でも、他の分野の人々によってすでに発展させられている概念を利用できる場合があるということ、また共同の語彙を持つよう何とかしなければならないということなどであった。


ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス」より

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

それにしても、ここにENIACプロジェクトの中心人物であるモークリーとエッカートが参加していないのが奇異である。この会議の主導者は皆、理論家で、実務家であるモークリーとエッカートを重要視しなかったのか、それとも、実務家である二人が、理論家たちの動きに、理論家たちが暴走していると感じたのだろうか?


ここで私はあわてて説明を加えるのだが、先ほどから登場している人物であるハワード・エイケンは、モークリー、エッカートとは別の流れで現代のコンピュータへの流れを築いた人物である。彼はハーバード大学に在籍する物理学者で、アタナソフやモークリーと同じように、研究に必要になる複雑な計算を何とか自動化出来ないか考えていた。

  • 私は年代順の記述を心掛けている、と先に宣言したわりには、この人物を取り上げることを失念していて心苦しい。実はエイケンが高速計算機のプロジェクトを開始したのは1939年で、アタナソフがABCの最初の試作機を完成させた年という、非常に早い時期だった。

エイケンの構想はリレーを用いるものであって完全な電子化を目指していなかった。リレー、つまり電磁石によるスイッチ機構は、物理的に金属片を動かすことで回路を導通させたり、遮断させたりするので、電子という極めて軽い物質よって回路を導通させたり遮断させたりする真空管よりも動作に時間がかかった。たぶん、エイケンは当時の真空管の信頼性を心配してリレーを採用したのだろう。エイケンは自分の構想をアメリカの軍部に売り込まず、IBMに開発を委託した。IBMは当時まだコンピュータメーカーではなく(もちろん当時、コンピュータは存在しなかったから)パンチカードによるデータ処理機器を販売していた。エイケンの構想していたコンピュータ(ハーバード・マークⅠ)は1944年8月7日になってやっと完成した。こちらは軍事機密ではなかったので、一般への情報公開は問題にはならなかった。ウィーナーは敏感に時代の流れを感じ取り、コンピュータ開発に携わる主要な2人の人物、フォン・ノイマンエイケンと交流を持ったのである。


1945年5月にドイツが降伏し、ヨーロッパの戦争は終結したが、ENIACはまだ完成しなかった。ENIACは、その最初の目的である弾道表の高速計算という用途には間に合わなかった。それでも開発は進められた。それどころか次のコンピュータであるEDVACの開発まで決まっていた。1945年6月、フォン・ノイマンがEDVACについての設計内容を記した「EDVACに関する第一草稿(First Draft of a Report on the EDVAC)」を発表する。

*1:ローゼンブリュート