コンピュータ創世記(8)

1945年6月に発表されたノイマンの「EDVACに関する第一草稿(First Draft of a Report on the EDVAC)」は今ではネットからダウンロード出来る(First Draft of a Report on the EDVAC)。これは、当時の時点において、これから建設すべきコンピュータの仕様をこと細かく説明した文書である。この文書は、現代のコンピュータのアーキテクチャに大きな影響を与えたため、現代の大部分のコンピュータは「ノイマン型」という形容詞がつけられることになった。中でも一番重要なのは、プログラム内蔵方式を明確に述べたことである。このことが、モークリー、エッカートとノイマンの間の関係を決定的に悪化させた。モークリーの主張によれば、この文書の内容はモークリー、エッカート、ノイマンを含めた人々の討論の中から生まれたアイディアであり、それをノイマンが単独の署名で発表するのは、あたかも自分だけで全てを着想したように他人に見せる一種の詐欺だというのである。もうひとつの気に入らない点は、この仕様を公開することでEDVACの特許を取ることが出来なくなってしまったことである。このことはその後のコンピュータ産業の発展にとってはよいことだっただろう。

二号機となるEDVACの開発にあたって、ゴールドスタインはノイマンに論理アーキテクチャーについての助言を求めた。この頃、ノイマンはロスアラモスの原爆投下をめぐる最後の仕事に忙殺されていたが、仕事も合間を見て3月頃までに大方の提言を仕上げていた。その文書が、First Deaft of a Report on the EDVACと題された101項の謄写版刷りの印刷物で、正式には1945年6月30日にゴールドスタインに届けられた。ゴールドスタインはこの文書をすぐに増刷りし、ヨーロッパの開発研究者たちに配布した。
 電子計算機の論理設計を明快に解説したノイマンFirst Draftは、以後コンピュータの論理設計の手本(バイブル)となった。ハードとは独立したソフトウェアという概念を確立したのである。このドラフトにはノイマンの名前だけが記されていたので、ノイマンの名声だけが高まったことに、製造開発者のエッカートとモークリーは不満で、これがコンピュータ開発の功名争いの始まりになる。「ノイマンは電子回路をただ別の言葉で書いただけで、設計の功績は我々にある」というのが、彼らの主張である。特許をとって巨額の富を夢見ていた彼らは、名声を独り占めにしたノイマンに激しく嫉妬したが、ノイマン自身は金儲けのことはまったく念頭になく、計算機を使い物にするための提言をまとめただけのつもりだった。


ノイマン生誕百年にあたって:盛田 常夫氏著」より

  • それにしても、私はこれらは軍事機密ではなかったのかと、思う。それなのにどうして公開することになったのだろうか? この文書がどのような経緯でどの範囲まで広まったのか、まだ調べることが出来ずにいる。英語版のWikipediaの「First Draft of a Report on the EDVAC」の項目にも、上の引用と同じように、この草稿はノイマンが手書きで書いてゴールドスタインに郵送し、ゴールドスタインがタイプしてコピーを作った、ということが書かれていた。とすると公開に積極的だったのはノイマンよりむしろゴールドスタインだったのだろうか? ひょっとすると、1944年8月にゴールドスタインがフォン・ノイマンに駅で偶然出会ってENIACのことを話した、というゴールドスタイン自身の回想も疑わしいのではないだろうか? このあたりを調べると面白いことが出てきそうだと思う。


ところで「EDVACに関する第一草稿」にはウィーナーの影響と思われる、コンピュータと人間の脳神経系の対比の話が登場する。たとえばこんな記述がある。

2.6 この3つの特定の部分、CA*1とCC*2(合わせてCとする)とM*3は人間の神経系における連合野に相当する。残っているのは、感覚神経つまり求心性神経、と、運動神経つまり遠心性神経にあたるものについて検討することである。これらはこの装置*4の入力器官と出力器官である。これらについてここで手短に検討しよう。

このあとにも、コンピュータを構成する素子と人間を含む高等動物のニューロンの機能の類似性が議論されている。モークリーとエッカートにとってコンピュータと人間の対比はあまり興味のないことだっただろうが、マカロック・ピッツの理論からウィーナーを介してノイマンに流れてきたこのアナロジーの考えがこの第一草稿に影響を与えていた。


1945年8月に日本が降伏し、第二次世界大戦は終わった。その直前に広島と長崎への原爆投下があったことは、ウィーナーに大きなショックを与えた。そしてウィーナーは、自分が今後いかなる軍事研究にも係わらないことを決意した。数年後のことになるが1948年にウィーナーが発表する本「サイバネティックス」ではその長い序文の終わりのほうに憂鬱な調子でこんなことを書いている。

既述のように、善悪を問わず、技術的に大きな可能性のある新しい学問の創始にわれわれは貢献してきた。われわれはそれを周囲の世間に手渡すことができるだけだが、それはベルゼン*5や広島の世間でもある。

一方、ノイマンは広島と長崎の惨状を知っても軍事研究をやめなかった。その後の話であるが、彼は水爆の開発に協力し、1953年にはミサイルの開発を提言する委員会(通称「フォン・ノイマン委員会」)の理事にもなった。


1945年11月、ENIACはまだ完成していなかったが、軍関係者を呼んでの試運転のデモを行った。それは水爆の研究のための熱核連鎖反応の数値計算であった。これはENIACが、そもそも兵器として開発されたことを思い出させる逸話である。ENIACの開発はマンハッタン計画には間に合わず、マンハッタン計画では機械式の計算機を使って原爆が開発された。しかし、今後の核兵器の開発にはノイマンの目論見通りコンピュータが寄与することになった。

*1:Central Arithmetical part(中央演算部)

*2:Central Control(中央制御部)

*3:Memory(メモリ)

*4:EDVAC

*5:ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所のこと