コンピュータ創世記(9)

1946年2月14日にENIACは完成をみた。
ここまでのコンピュータ誕生の流れを振り返ると、以下のようになりそうだ。1930年代末には科学用数値計算の需要が増えていた。特に偏微分方程式数値計算は独立変数が2つ以上あるため、従来のアナログでは扱いが難しかった。それにアナログ計算機は精度を向上させることが難しい。それで何人かの人々は自然にデジタルの考え方にたどり着いた。そして、資金さえあれば大規模高速計算機が開発出来るメドが一部の人には見えていた。その資金を可能にしたのは第二次世界大戦である。これらコンピュータを開発しようとしてきた人々は数学者を中心とする理論家とは別のグループにいた。別に数学的な理論が先行して、その応用としてコンピュータが誕生したわけではない。理論家の流れが加わったのは1944年9月にフォン・ノイマンENIACプロジェクトに半ば強引に参加してからだった。この時からENIACプロジェクトのことは一部の学者に知れ渡ったらしい。そのうちの一人ウィーナーは、自分の、工学と生理学を数学を介して対比する学際研究にこれを利用した。そしてこの流れがノイマンの「EDVACに関する第一草稿(First Draft of a Report on the EDVAC)」に影響を与えた。


さて、フォン・ノイマンに功績を取られた形になったモークリーとエッカートは、次のコンピュータであるEDVACの開発プロジェクトから抜けてしまう。そして翌年1947年にエッカート・モークリー・コンピュータ社を設立し、コンピュータをビジネス界に移す。


1946年に話を戻すと、ENIACの公開の1か月後の3月8日から、いわゆる「メイシー会議」が開催される。この会議の仕掛け人は神経生理学者ウォーレン・マカロックと人類学者グレゴリー・ベイトソンだった。アメリカの科学界に新しい活気がやってきた。そこにはENIACの存在が大きかったことだろうと想像する。

1946年春、マッカロ博士はジョサイア=メイシー財団と打ち合わせて、フィードバックの問題に関する一連の会合の第1回をニューヨークで開催する準備を整えた。これらの会合は財団を代表するフランク=フレモント=スミス(Frank Fremont-Smith)博士によって組織され、メイシー流にひじょうに能率的にすすめられた。すなわち種々の関連分野の中から約20名をこえない程度のあまり多くない数の研究者を1堂に集め、連続まる2日間、形式ばらずに研究発表を行い、参加者同士の意見のちがいが無くなり、同じ線に沿って考えられるようになるまで討論し、食事をともにするというやりかたであった。


ノーバート・ウィーナー「サイバネティックス」より

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

会議録によれば、第一日目の午前中は、まずフォン・ノイマンが、電子計算機の機能についての講演を行なっている。(中略) フォン・ノイマンは、神経系と計算機との比較に時間を割き、ニューロン真空管との類似、乗算器の特徴、リレー機構の機能と特徴、脳と計算機の比較について順に説明している。続くデ・ノの発表では、神経細胞の電気的性質という研究成果が取りあげられ、ニューロンが発するインパルスの性質について論じられた。(中略)
 同じ日の午後に発表したウィーナーは、オートマトン*1とフィードバックという二つのテーマを設定して講演している。ウィーナーはオートマトンの明確な定義は行なわず「フィードバックに関係しており」「自己制御を行う」ものとだけ説明し、18世紀の時計仕掛け(clockwork)以来の歴史があるとする。しかし、現在我々が用いている新しいオートマトン、すなわち「対空火器制御装置」や「飛行機の制御」のための装置には、古いオートマトンにはない「感覚器官(sense organ)」を持つ特徴があると言う。そして、その感覚器官と中枢とを結ぶのが「通信路(communication channel)」なのだと述べる。(中略)ウィーナーは、「自分自身で制御行動を行うような機械」を取り上げ、自動制御とフィードバックの関連を指摘し、「目標を達成するための周期的過程」を伴うような制御について説明している。


ウィーナーの「サイバネティクス」構想の変遷 : 1942年から1945年の状況――杉本 舞

この時、参加者は確かに科学の新しい流れがあることを感じていたが、それが何なのかをまだ的確に言い表すことが出来なかった。今の時点で振り返れば、それは情報工学の誕生だった。私は、会議の中心人物ノーバート・ウィーナーがその概念をとらえ損ねている、と感じている。ウィーナーは最初はこれら諸分野を統一する概念としてフィードバックを掲げ、その後、通信が基本概念だ、と言い始めた。実は、通信よりも情報が本当は基軸になっていた。そのことが明らかになるには1948年のクロード・シャノンの論文「通信の数学的理論」で情報量という量の定義を提案するのを待たなければならない。奇妙なことにすでに世の中にコンピュータが登場したにも関わらず、まだ情報量の概念は明確化されていなかった。

*1:オートマオンは日本語でいう「からくり」に意味が近いと思う。